『人間性の否定と虚構の世界ー11』/1985年の日航ジャンボ機墜落に関する疑惑➅
* 本連載の目的 *
本連載は、一次資料をもとに自分自身の頭で考えるというテーマで書いた『「お金・相場」に関する幸福否定の研究』の続編として位置づけています。
心理療法家の笠原敏雄先生が提唱した、「反応を追いかける」という方法論を使って明らかになった事や、経緯を書いていますが、主張内容は筆者個人のものです。
また、権力者や専門家を批判する内容もありますが、一般大衆の態度や要求も問題にしており、特定の層を糾弾する意図はありません。集団における異常行動の原因となる、幸福否定理論で説明できる心理的抵抗の検証を目的としています。
*大まかな流れ*
『「お金・相場」に関する幸福否定の研究』において、「お金とは何か?」という事に対して、多くの人において抵抗が強い事がわかりました。
その後、「核兵器・原子力」の分野と、「土壌」という分野においても、集団での抵抗がある事がわかっています。
本稿は、「核兵器・原子力」の集団抵抗と、その背景にある社会システムの分析過程という位置づけになります。
* 用語説明 *
幸福否定理論:心理療法家の笠原敏雄先生が提唱。心因性症状は、自らの幸福や進歩を否定するためにつくられるという説。娯楽は難なくできるのに、自らの成長を伴う勉強や創造活動に取り組もうとすると、眠気、他の事をやりたくなる、だるさ、その他心因性症状が出現して進歩を妨げる。このような仕組みが特定の人ではなく人類にあまねく存在するという。
抵抗:幸福否定理論で使う”抵抗”は通常の嫌な事に対する”抵抗”ではなく、許容範囲を超える幸福、自らの成長・進歩に対する抵抗という意味で使われている。
反応:抵抗に直面した時に出現する一過性の症状。例えば勉強しようとすると眠くなる、頭痛がする、など1985年の日航ジャンボ機墜落の疑惑に関して、国、官庁、専門家、報道関係などのいわゆる「権威」の実態と、大衆の側の問題点という視点で書いてみたいと思います。
・川上村の目撃証言
大きな飛行機がゆっくり、不安定に飛行し、山影に隠れた直後(20秒、1分以内など)に空が光り、大きな音がして、煙があがる。複数機ではない。主に大手メディア、週刊誌に掲載。
・上野村の証言
複数の飛行機が墜落現場上空を何分かに渡り、グルグルと旋回。飛行は安定。2機は埼玉(一人の証言では茨木のほう)に行った。ジャンボジェット機、戦闘機などの記載はない。また、低空飛行という記載もない。墜落に関係する煙、空の光は見ていない。後に青山透子氏が著書に掲載し、日航機123便と自衛隊のファントムであると推測。
3年生 S・Nさん
八月十二日の時、いつもよりひこうきのとぶのがうるさいので、どうしたのかなあと思いました。そとを見ても、なにもなさそうだから、テレビを見ていました。そしたらニュースレーダーで、「百二十三びんが、レーダーからきえました。」とあったのでこわかったです。
それから、おふろに入っていたら、放そうで、「何か、ふしぎな光や音をみたらしらせてください。」とありました。(以下略)(引用:『小さな目は見た』)
5年生 S・Yさん
私は、十二日六時三十分ころニュース速報で、「日航一二三便が、長野県付近でレーダーから消えました。」と出たのでお母さんに言ったら、すぐ来てニュースを見ました。ニュースを見ていたら、役場の放送で「変な音や、光を見たら役場にご連絡下さい。」と言いました。(以下略)(引用:『小さな目は見た』)
中学1年生 T・Mさん
「わぁ、520人も乗っているのに、もし落っこちたら、かあいそうだなぁ」と、落ちる前のニュースを聞いた時、私は一番はじめにこう思いました。
そして少したってから、役場から「音を聞いたり、光を見たりした人は、役場に電話して下さい」というような放送がありました。(以下略)(引用:『かんな川5』)
中学一年生 O・Hさん
(前略)次の日から報道陣とか自衛隊などの車が続々とやってきました。そして、僕は弟と平浜のほうに行って遊んできました。そしたら、機動隊の方が「昨日の夜、なんか変な光見なかったかい」と尋ねたから、「見ませんでした。」と答えました。(以下略)(引用:『かんな川5』)
(前略)前述したような計画が組み立てられていたとすると、機体のシップ繰り、つまり機体そのもののスケジュールも調整しなければならない。しかし、これは地上職員とも何らかの協力関係がなければ実現は難しい。この点は難問であった。
しかし、私は墜落以降の新聞を詳細に調査するなかで一つの記事が目に止まった。墜落発生から一か月後の九月二一日、日本航空のメンテナンスコントロール室に所属する職員(当時は半官半民ゆえに職員と呼ばれた)のH・T氏が、自身の身体を数か所刺して自殺していたのだ。(中略)
墜落以後、遺族係を任されたH・T氏は「死んでお詫びする」という遺書を書き残して自殺したという。
この事実から一つの仮説が浮かぶ。つまり、社内にはパイロット以外にも協力者がいたのではないかという疑惑である。これはしかし、荒唐無稽な話ではない。なぜなら、当時の日本航空には戦後直後に入社した自衛隊出身者や満州航空出身の職員が多数在籍していたのだ。満州航空とは、一九三一年に満州で創設された国策会社である。通常の航空業務に加えて、日本軍にかかわる数々の秘密工作をおこなっており「ヒツジの皮を被ったオオカミ」と呼ばれていた。そして自殺したH・T氏は満州航空出身であった。彼らは同窓意識が強いため、たとえば墜落時の社長高木要根氏が知らないところで、独自になんらかの行動をしていたのではないか、と、推察できる。こうした状況を総合的に考えれば、用意周到に準備を重ねてきたと考えることもできる。
(引用:『四十年目の真実』p73)
*複数の資料で確認できる事実
1.開戦当時、日本と米国が戦争を行う合理的な理由が無かった事という意見が多い事。日米開戦の動機が未だに明確になっていない。
2.真珠湾攻撃で撃沈した戦艦は、老朽化した戦艦であり、空母は真珠湾にはいなかった事。
3.日本が米国と戦争を行うと想定した場合に、戦略的に最も重要になる、ハワイの石油タンク、機械工場、修理施設、高圧電力網は一切攻撃対象にしなかった事。
4ー1 日本軍が真珠湾に到着するまで、米軍との戦闘は行われていない。
また、真珠湾を攻撃中に米国からの迎撃は行われていない。オーストラリアが、日本の海軍機動部隊がハワイに向かっていることを確認し、米政府に報告していた事がわかっている。
*スティネット氏の主張
4ー2 日本軍が真珠湾への出撃を開始した1941年11月25日に、米海軍作戦本部は、太平洋を横断する船舶の航路をオーストラリアとニューギニアの間のトレス海峡とする通達を出した。結果として、日本軍の航路は真空状態になった。(『真珠湾の真実』p164~165)
5.1940年に日本を開戦に誘導する案がマッカラムの戦争挑発行動八項目覚書として出ており、米国の公文書として残っている事。また、それを実行に移そうとしていた状況証拠(参考:『真珠湾の真実』p50、51)がある事。
*一九四〇年十月七日付・アーサー・マッカラム少佐の覚書(第二公文書館の軍事関係部門の記録グループ38(RG38)の特別米軍収納箱6号)
(A)太平洋の米軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。
(B)蘭領東インド(現在のインドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。
(C)蒋介石政権への、可能なあらゆる援助の提供。
(D)遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣すること。
(E)潜水戦艦二隊の東洋覇権。
(F)現在、ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。
(G)日本の不当な経済要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するように主張すること。
(H)英帝国が押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁止。(引用:『真珠湾の真実』p451、456)
(筆者注:要約すると、日本を取り囲むように米軍が基地を使用する、日本に資源を輸入させない、ハワイを攻撃目標とさせる、という内容)
6.日本軍の暗号は傍受され、真珠湾が攻撃される事をルーズベルト大統領をはじめ、米国の主要人物は知っていた。
7.傍受された暗号の内容が記載されている公文書が、破棄、もしくは閲覧禁止になっている。
(前略)
A 25万人もの都民を殺戮しながら意図的に攻撃対象から外したものもある。ここからアメリカの東京空襲の狙いが見てとれる。
C 代表格は皇居だ。東京のど真ん中に広大な面積を持つ皇居について、米軍ははじめから「攻撃対象にしない」という指令を徹底していたし、天皇側もそれを知っていた。皇居北側の近衛師団司令部、東部軍司令部などの軍中枢部や、市ヶ谷の陸軍省・参謀本部(現・防衛省)など、本来狙われるべき軍中枢が無傷だった。赤坂離宮(現・迎賓館)、青山御所、新宿御苑、浜離宮、上野公園などの皇室所有地や、官僚機構の一端を担っていた皇族住居はことごとく攻撃の対象外だ。
東京駅は焼失したが、皇居に挟まれた丸の内の金融ビル街も残った。三菱本社、三菱銀行、三菱商事、日本興業銀行、横浜正金銀行、東京銀行、第一銀行、勧業銀行、関東配電(東京電力)などの財閥のビルが林立している。朝日、毎日などの新聞各社、放送会館(NHK)も残った。八重洲では日銀、三井本館。永田町や霞ヶ関でも、内閣府、国会議事堂、警視庁、内務省、大蔵省などが残された。ちなみに上野公園に隣接する三菱財閥統帥の岩崎久弥邸も攻撃を受けていない。広島、長崎、下関空襲でも三菱の主要工場は無傷であり、政財界とアメリカの盟友関係を裏付けている。
軍施設がほとんど残されているのが特徴で、陸軍の心臓部といえる赤羽の陸軍造兵廠、陸軍火薬庫、工兵大隊、陸軍被服本廠、兵器支廠、東京第一、第二兵器補給廠も周囲が焦土になるなかでわざわざ残されている。代々木の近衛輜重大隊、陸軍輜重連隊官舎、広大な駒場練兵場や野砲隊の官舎群もみな無傷だ。
E 工業施設でも、東芝本社のある芝浦工業団地から品川駅付近の港湾施設も攻撃されなかった。全滅した深川区に隣接する石川島造船所、佃島、月島など東京湾に面した工業施設、南部工業地帯の蒲田でも中心市街地が徹底的に焼き尽くされたが、羽田飛行場などの軍需施設はほとんど攻撃されていない。「米軍作戦任務報告書」に記された工業的目標はわずか22カ所に過ぎないが、そのうち破壊したのは18%だと記されている。実は無差別爆撃ではない。絨毯爆撃ではあるが、アメリカの対日支配に役立つものは残し、その邪魔になる庶民は殺すと極めて明確に選別している。
(引用:【記者座談会】語れなかった東京大空襲の真実 /長周新聞)
A 東京空襲にも不可解な点がいくつもある。例えば、空襲直前に警戒警報を解除している。広島、長崎での原爆投下も直前になって警戒警報を解除し、みんなが安心して表に出てきたときに投下されている。あれは軍中枢が協力しなければできないことだ。300機をこえるB29の接近に気づかないわけがないが、物量で太刀打ちできないとはいえ、まともな反撃すらせずに米軍のやりたい放題を開けて通している。
(引用:【記者座談会】語れなかった東京大空襲の真実 /長周新聞)
(前略)
B 「暗闇のなかであれほど緻密な爆撃がどうしてできたのか?」という疑問も多く語られていた。「目標から外す目印のために誰かが下から光を当てていた」と証言する人もいた。原爆投下と同じく「戦争を終わらせるためにやむをえぬ」というものではなく、日本を単独占領するために国民の抵抗力を摘むための大量殺戮だった。
(引用:【記者座談会】語れなかった東京大空襲の真実 /長周新聞)
東京大空襲においては、およそ南北10kmに渡り、時速300km~500kmで飛行すると推定されるB29が、真夜中に300機以上飛来し、精密な爆撃を行いました。
爆撃が始まったのが夜中の0時過ぎになるので、夜の暗闇と煙で地上はほとんど確認できなかったはずです。そのような状況で、新幹線の倍以上の速さで飛びながら、上空から強風の中、焼夷弾をバラバラと落として、特定の建物を精密に避けるという事が、当時の技術で可能であるのかは、地上からの協力が無かったのか、大いに検証の余地があります。
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