芸術と潜在意識 4:芸術作品鑑賞時の反応とスタンダール症候群の比較①

連載【芸術と潜在意識】とは?

筆者が【幸福否定の研究】を続ける上で問題意識として浮上してきた、「芸術の本質とは何か?」という問いを探る試み。

連載の流れは以下のようになる。

・現状の成果…龍安寺の石庭の配置を解く
・スタンダール症候群の説明
・鑑賞時に<反応>“が出る作品
・鑑賞時に<反応>が出やすい条件
・芸術の本質とは何か?

=人物・用語説明=

* 今回、言説を参照する人物 *

小坂英世:精神科医。精神分裂病患者の症状発症の直前の出来事の記憶が消えている事、それを思い出させると症状が軽減・消失することを発見。小坂療法の創始者。

笠原敏雄:小坂療法から出発し、ストレス・トラウマではなく患者本人の許容範囲以上の幸福が心因性症状の原因になっているという、幸福否定理論を提唱。”感情の演技”という方法で、患者を幸福への抵抗に直面させ乗り越えさせる、独自の心理療法を開発。また、日本を代表する超心理学者でもある。

グラツィエラ・マゲリーニ:イタリアの精神科医。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ病院に運びこまれる外国人観光客の症状を記録し、スタンダール症候群と名付ける。

* 用語説明 *

反応:抵抗に直面した時に出現する一過性の症状。例えば勉強しようとすると眠くなる、頭痛がする、など。
抵抗:幸福否定理論で使う”抵抗”は通常の嫌な事に対する”抵抗”ではなく、許容範囲を超える幸福に対する抵抗という意味で使われている。

(以下本文)

■芸術作品鑑賞時の〈反応〉の研究に至るまでの経緯

前三回を使い、龍安寺石庭の配石やピタゴラス学派の数に対する考え方などを例にとりながら、芸術表現における数の機能や比率の問題について考察を進めてきました。今回は、その際に指標として使った〈反応〉を改めて説明し、芸術作品鑑賞時の症状として、既に報告されているスタンダール症候群との解釈の違いについて書いてみたいと思います。

スタンダール・シンドローム(英: The Stendhal Syndrome)

フランスの作家スタンダールが、1817年に初めてイタリアへ旅行した時にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂の内部の17世紀のフレスコ画を見上げていた時に、突然眩暈と動揺に襲われしばらく呆然としてしまったということから、1989年、イタリアの心理学者グラツィエラ・マゲリーニが同様の症状を呈した外国人観光客の例を数多く挙げてこのように命名したもの。彼女によると、崇高な充実感と同時に強い圧迫感が見られたという。
原因は解明されていない。憧れのイタリア美術の精髄を目の当たりにして、その作品の中に吸い込まれるような経験をするのだという説もあるが、イタリアのローマやフィレンツェ、ミラノのような都市は見上げるような人を圧倒する美術作品、建築が多く、長く上を見上げて眺め続ける姿勢により、眩暈や吐き気、失神が引き起こされるという説もある。このような症状が起きるのは、殆どが西ヨーロッパの国々からの観光客で、イタリア人にはほとんどない。またアメリカ、日本からの観光客にもこのような症状が出ることはほとんどない。

(以上、Wikipediaより)

私は東洋医学の理論を基盤とした施術を仕事にしていますが、この研究は、日々接する患者さんの一部に見られる不思議な行動に着目するところから始まりました。

本人が「治りたい」と言っているのに、治そうとする意識がみられない。また、一つの症状が改善すると別の症状が出てしまう、通所理由だった持病が改善すると、次は他の問題行動が目立つようになる等、施術者から見ると理解が出来ない現象が見受けられたのです。

私は、これを一種の自滅的な行動として解釈しました。

そして、2006年に心理療法家である笠原敏雄先生の『幸福否定理論』へ出会い、それらの自滅的な行動がどういうものであるのか、理解できたように感じました。

以前の連載でもたびたび参照していますが、笠原先生の著作から以下の記述を読んで頂ければ、主張する理論の内容が分かります。少し長文ですが、引用します。

たとえば、締め切り間際にならないと課題に手がつけられない者が、まだ時間の余裕が十分あるうちに、その課題に無理やり手をつけようとした場合を考えてみよう。

まず、さまざまな雑念が沸くなどして、その課題を始める態勢に持ってゆくこと自体が、非常に難しいであろう。机を使う仕事であれば、机の前に坐るまでに、実に長い時間がかかる。努力の末、ようやく覚悟を決めて座っても、今度は、別のことをしたい気持ちが強く沸き起こってくる。

娯楽的なことをしたくなったり、片づけをしたくなったり、無関係の本や雑誌を読みたくなったり、横になりたくなったりするのである。これが“現実逃避”とか“時間つぶし” と言われる現象の本質である。

そうした逃避的誘惑を何とかこらえて、無理に課題に取りかかろうとすると、今度は反応が起こるようになる。あくびが出たり眠気が起こったりすることもあれば、頭痛や下痢や脱力などの身体症状が出ることもあるし、鼻水やかゆみや喘息などのいわゆるアレルギー症状が起こることもある。

さらに抵抗が強くなると、食物やアルコールの乱用に走る者もあれば、異常行動に走る者もある。 ほとんどの場合は、そうした抵抗に耐え切れなくなり、そこまで強い反応前にやめてしまうであろう。

しかし、それでも本腰を入れて強行しようとすると反応はもっと強くなる。身動きができないほど、脱力感が強くなったり、急速に眠り込んでしまったりすることもあれば、自滅的な行動に耽ったりすることも あるのである。

しかし、その努力をやめれば、そうした症状はたちどころに消える。このような症状は、自分を前向きにしようとする努力を阻止する形で起こる。これが幸福否定の現れなのである。

ここではまた、締め切り-つまり、外部からの要請-がある場合の話である。

では、もし締め切りというものがなく、全く自発的に自分のしたいことをしようとした場合には、容易に想像がつくように、ほぼ例外なくその課題にほとんど、あるいは全く手がつけられないまま一生を終えてしまう。

(引用:笠原敏雄 著 『なぜあの人は懲りないのか 困らないのか』  )

笠原先生は、人間の心には、自分を前向きにしようとする力(本心)と、それを阻止しようとする力(内心)が、一部の人間だけではなく、程度の差こそあれ万人に例外なく存在するという主張をしています。

また、笠原先生の著書には、治る事に抵抗がある患者さんの例も数多く挙げられています。

■小坂療法と〈反応〉という用語の説明

笠原先生は、自身の心理療法を確立する前の1970年代、小坂英世先生という精神科の医師が開発した『小坂療法』という精神分裂病の治療法を行っていました。

小坂療法は患者に以下のような驚くべき変化をもたらします。(※ 2017年現在、分裂病は、統合失調症と呼称変更されています)

・分裂病患者の、症状発症の直前にあった記憶が消えている
・その記憶が蘇ると、分裂病の症状が消える

症状発症の原因を探ると、患者に変化が起こります。小坂医師は著作『精神分裂病読本』で「軽い場合にはハッとした表情、姿勢の変化であり、極端な場合は驚愕反応」であると書いていますが、頭痛や悪心などの身体的変化、あくび、眠気など様々な症状が出ます。

これを〈反応〉と呼び、原因探り出す指標として使っていました。

しかし、小坂医師は、こうした反応を、忘れていた原因を思い出した事による驚きや不快感や良心の呵責によって起こるものと考えていました。(笠原敏雄『幸福否定の構造』P44)

それに対して、笠原先生は小坂医師の観察した〈反応〉をより重視し、目安にしながら追試を行い、以下のような結論に至ります。

・精神分裂病に限らず、心因性の疾患全般で、発症原因となる直前の出来事の記憶が消えている。

・症状の原因となる、「記憶が消えている出来事」は、本人の許容範囲以上の幸福感を呼び起こすものである。

・心因性症状全般で、「原因となった記憶」を思い出せば、多かれ少なかれ症状は軽減する。

・但し、精神分裂病ほどで劇的ではない。

要するに、心因性症状全般の原因は本人の許容範囲以上の〈幸福感〉であり、〈反応〉は本人がそこから目を逸らすため、一時的につくりあげた症状、ということになります。

以上のような主張に対して、「心因性症状の原因はストレスやトラウマ」という現代の常識からかけ離れた内容であるがため、奇異に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、私自身は追試を行い、笠原先生の主張を支持する結果を得ています。※ 追試等の経過に関しては、【幸福否定の研究】をお読みいただければと思います。

さて、〈反応〉という用語について話を戻します。以前、同じ現象に対する原因の解釈が小坂医師と笠原先生では違っているにも関わらず、〈反応〉という同じ言葉を用いていることについて笠原先生に質問したことがあるのですが、先生からは、「違和感はあるもののオリジナルを尊重して、そのまま使っている」という説明がありました。

私の心理療法で言う〈反応〉とは、しばらくのあいだ持続する“症状”とは異なり、日常生活の中でも(中略)ごくふつうに起こる心身の一過性の変化(眠気、あくび、心身症状)を指す言葉です。いわゆる新型うつ病などで知られるようになった、状況に応じて反応(あるいは症状)が出たり引っ込んだりする現象(中略)も、反応の実例としてわかりやすいものでしょう。

なお、この反応という概念は、小坂先生によるものを除けば、心理療法理論としてであれ何であれ、これまで全く存在しませんでした。幸いなことに、最近、その格好の実例が知られるようになりました。それが、書店に入ったとたんに便意を催すとされる“青木まりこ現象”です。(中略)これは、すぐれた美術作品に接すると心身の種々の変化を起こすとして、比較的最近、西洋で知られるようになった“スタンダール症候群”と並んで、反応自体に名前がついている珍しい例です。

(引用:心の研究室 トップページ 反応とは何か?より)

私が〈反応〉という語を使うときも、笠原先生と同様に、「本人の許容範囲以上の幸福から逸らす目的で、一時的につくりあげられる症状」という意味になります。

■スタンダール症候群は幸福否定の反応である

やや回り道をしましたが、ここからは、スタンダール症候群が、上述してきた〈幸福否定〉の〈反応〉である否かを簡単に検証したいと思います。

まずはじめに、そもそもスタンダール本人はどういう経験をしたのでしょうか?本人の著作から引きます。

そしてついにサンタ・クローチェに到着した。(中略)そこで、僕は祈祷台の足乗せに坐り、顔をそらせて、聖書台に寄りかかって、天井を眺める事ができたが、ヴォルテラーノの巫女(注1)たちはおそらく僕に、絵画がこれまでに生じさせたもっとも激しい喜びを与えてくれた。

僕は自分がフィレンツェにいるという考え、墓を見たばかりの偉人たちの近くにいるという考えに、すでに一種の恍惚状態であった。

崇高な美を熟しすることに没頭して、僕はそれを間近に見て、いわばそれに触れていた。僕は美術から受けたこの世ならぬ印象と興奮した気持ちが混じり合ったあの日の感動の頂点に達していた。

サンタ・クローチェを出ながら、僕は心臓の動悸、ベルリンでは神経の昂りと呼ばれるものを覚えていた。僕の生命は擦り減り、倒れるのではないかと心配しながら歩いた。
 
(引用:『イタリア旅行記Ⅱ』P78~P79)

スタンダールがこの症状を起こしたのは、200年近く前ですが、現在でもフィレンツェを訪れる観光客の間で、同様の症状がみられるようです。

フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェラ病院のグラツィエラ・マゲリーニ医師は、同病院に、スタンダールが経験した症状と同様の、あるいは似た症状を訴える観光客が来院する事から、この症状をスタンダール症候群と名付けました。そして、症例を記録し、1989年に、『La sindrome di Stendhal』と(『スタンダール症候群』)という本を出版しました。

上記の『スタンダール症候群』がイタリア語出版のみという事情もあり、英語版のあるマゲーリーニ医師の他の著作(引用:”Mi sono innamorato di una statua -Oltre La Sindrome di Stendhal/Graziella Magherini:注2)を参考にしますが、マゲリーニ医師は、スタンダール症候群の症状として、パニック発作により、眩暈や頻脈など身体的不快感を伴いながら、気絶、窒息、さらには、死んでしまう、気が狂ってしまう、という恐怖を感じる症状、または発作的なうつなどを挙げています

また、それらの症状と一緒に、家に帰りたい、家族と一緒にいたいという抑えられない欲求が出てきたり、外側の世界が自分に敵対的で、自分を脅かしている、という強烈な疎外感や極度の不快感を感じる例も挙げられています。

以上のような症状は、スタンダールの場合もマゲリーニ医師の著作で紹介される症例の場合も、「本人が喜んで観光旅行に行った」はずのフィレンツェで観光を続けられない状態になる、またはフィレンツェに留まる事を難しくする、という点で共通しています。

いずれの場合も、現在の精神医学の常識である「ストレスやトラウマ」ではなく、本人の幸福を妨げるため=〈幸福否定〉の症状が出現すると考えるほうが適切ではないかと思います。さらに、それは「芸術作品の鑑賞」から引き起こされるものだというところに大きな特徴があります。

『スタンダール症候群』は、特定の観光地で発生する症状として知られる『エルサレム症候群』や『パリ症候群』などとは似て非なるものであり、フィレンツェに固有の現象ではないのです。京都や奈良でも起きますし、美術館以外でも、芸術鑑賞をする場であれば起こりえます。音楽鑑賞などでは自宅でも起こります(そのさい、作品は〈本物〉ではなく、複製でかまいません。私自身、心理療法を行う中で、患者さんに芸術作品の写真を見せて〈反応〉が出ることを確認しています)。

フィレンツェで頻発するのは、〈幸福否定〉の〈反応〉が出やすい作品が多くあり、加えて、都市の規模が小さい、という部分に理由が求められるのではないかと私は考えています(上記マゲリーニ医師が勤務するサンタ・マリア・ノヴェッラ病院にまとまった数の症例が報告される要因もそこにあるのでは?)

マゲリーニ医師は、スタンダール症候群を芸術作品鑑賞時に起こる症状と考え、芸術作品と症状の関係を認めていますが、『スタンダール症候群』と見なされる症状においても、芸術作品鑑賞によるものと、そうではないものとが一括りにされている例があり、検討を要します。

■芸術作品の鑑賞時に出る〈反応〉と区別しなければならないもの

建築家の磯崎新氏は、『ブック・アサヒ・コム』のコラムで、ご自身の経験からスタンダール症候群の話を書いています。

ウフィッツィ美術館が全面改造されるにあたり、その出口広場にロッジァ(屋根のついた半戸外空間)をつくる私の提案が採用され、隣接するパラッツォ・ヴェッキオの「五百人の間」で記者会見がひらかれていたとき、突然、私は眩暈(めまい)におそわれぶっ倒れた。

ヴァザーリの通俗的な大壁画のうらにはダ・ヴィンチとミケランジェロの消えてしまった競作があったはず、と思った瞬間だった。(中略)

いれられた救急室は近代風のフラット天井。昔東大病院に長期検査ではいったときも同じだった。(中略)無愛想な天井をみあげていると、フィレンツェの精神病理学の教授は、「ここでは、あなたのような患者の病名はスタンダール症候群といいます」という。

(引用:『BOOKasahi.com』 本を開けば 建築家・磯崎新さん:2 より)

注:2019年2月時点で、記事が消去されていたので、リンク省略。

読めば分かりますが、「磯崎氏はダ・ヴィンチとミケランジェロの作品を観たわけではない」のです。作品を観て〈反応〉があらわれ、さらに記憶が消えていれば、芸術作品を観た事が原因であると言えますが、氏の場合は少し違うように感じます。有名な建築物の場合、感受性の鋭い人にとっては、空間に身を置き、感じるだけでも建築作品の鑑賞をしていると言えるので、ヴェッキオ宮殿の建築が原因である可能性もないとは言い切れません。

しかし、推測ではありますが、私は「記者会見そのものが症状の原因になった」可能性が大いにあると考えています。

・薬を飲んだら症状が良くなった
・薬を飲もうとしたら症状が良くなった

以上が全く違う現象と言えるように、「芸術作品の事を考えて出た症状」と、「芸術作品を鑑賞したときに出た症状」では、原因が違ってきます。芸術作品を観ていなければ、芸術作品の鑑賞時に起こる症状とは言えません。

要は、磯崎氏の体験がそうだと疑われるように、フィレンツェなどの有名都市に芸術鑑賞の目的で観光旅行に行って発作を起こし倒れても、必ずしも芸術作品の鑑賞が原因とは断定できないということです。

・観光旅行の喜びそのものの幸福否定(特に長年夢見た海外旅行などでは多い)

・同行者(愛情のある相手など)と一緒にいる喜びの幸福否定

・芸術作品の鑑賞そのものによる喜びの幸福否定

少し考えても、様々な可能性が浮かびます。現在のところスタンダール症候群の定義には曖昧さが存在し、仔細な検討が必要になるということです。

ただ、「長時間上を向いていたから首が圧迫されて倒れた」「美容院などで良く起こる首の圧迫と同様の症状である」という俗説は明確に誤りでしょう。首を上にあげない絵画の鑑賞などでも〈反応〉は確認できますし、姿勢に囚われた、視野の狭い思い込みに過ぎません。

もちろん、中には首の圧迫が原因の症状もあるでしょうが、表面的に似ている別の原因の症状、という事に過ぎません。芸術作品の鑑賞時に出る〈反応〉では、スタンダールの症例のように喜びの感情と同時に症状が出ることも多いですが、首の圧迫ではそのような事はありません。首の話以外でも、スタンダール症候群は様々な別原因の症状と混同されることも多いのですが、芸術作品の鑑賞が原因で起こる現象であり、明確に異なるものです。

そして、芸術作品の鑑賞時には、スタンダール症候群のような強い症状以外にも、眠気や頭痛、便意など様々な反応が起きることがありますが、その特徴は以下のように整理できると思います。

・芸術作品の鑑賞時(建築などは体感も含む)に限る(スタンダール症候群)
・幸福否定による一時的な症状なので、原因となった芸術作品がはっきりした場合、再び鑑賞すれば、反応に再現性がある

ただ、通常、観光客は余程の症状がない限り旅行中に病院へは行きません。サンタ・マリア・ノヴェラ病院で報告される多数の症例が強いもの(=スタンダール症候群)ばかりになるのは、そうした事情があると推察できます。

次回以降、スタンダール症候群も含めて、本連載における芸術作品の鑑賞時における〈反応〉については、この条件を満たすもの、という定義で話を進めたいと思います。

■心理療法での生活圏と芸術圏の問題

〈反応〉の説明から、心理療法に話を戻します。

笠原先生の理論を知って以降、患者さんと接する中でさまざまな追試をし、幸福否定理論の勉強を続けていく中で、興味深い事実がいくつか分かってきました。

心因性の症状で生活や仕事に支障をきたして来院する患者さんの多くは、心理療法への取り組みで、ある段階までは症状の改善がみられます。しかし、日常生活に支障がなくなり、そのあと自分の生きがいなどを考える段階へ移ると、途端に心理療法が進められなくなる例が多いのです。

ただ、よく考えてみれば、9割以上の人は生活のためなら嫌な仕事でもこなすことはできますが、休みの日に、自分のやりたい事(この場合は単なる暇つぶしやその延長の娯楽ではなく、自分自身を向上させる、喜びになる事)に取り組めるか?となれば、1割もいないのではないでしょうか?

笠原先生は、人間の生活を、詩人の中原中也にならい、生活に直接関係する〈生活圏〉と生活には関係ない、純粋な喜びの世界の〈芸術圏〉に分けて説明しています。特に〈芸術圏〉の活動は、他の動物にはない人間特有の活動と位置付けています。

私自身も、患者さんや自身へ心理療法を行っていく上で必然的に後者の活動、言い換えれば、本当に喜びとなる活動は何か?ということを真剣に考えるようになったのです。

「芸術とは何か?その前に、人間とは何か?」

芸術作品の鑑賞時に出る反応にも、そこから興味を持つに至ったのですが、それは、必ずしも〈喜び〉に関係する〈芸術圏〉の活動で生じる〈反応〉と同じものではありませんでした。

そう単純ではなかったのです。

次回は、二者の違い、即ち〈芸術圏〉で起きる〈反応〉と、芸術作品の鑑賞時の〈反応〉の違いについて、もう少し詳しく書きたいと思います。

注1:スタンダールは、はっきりとヴォルテラーノの作品と書いていますが、サンタクローチェ寺院にあるジョットの作品という説が有力というのも不思議な点です。

注2:英語版: “I’ve Fallen in Love with a Statue” 参照

参考文献

笠原敏雄『なぜあの人は懲りないのか 困らないのかー日常生活の精神病理学』
(春秋社、2005)
笠原敏雄『幸福否定の構造』
(春秋社、2004)
スタンダール『イタリア旅日記〈2〉/ローマ、ナポリ、フィレンツェ 1826』
(新評論、1992)
Graziella Magherini『I’ve Fallen in Love with a StatueーBeyond the Stendahal Syndrome』
(Nicomp Laboratorio Editoriale, 2007)

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