幸福否定の研究 21・22 症状とは何か?
- 作成者: shunsukeshunsuke
- カテゴリー: 幸福否定の研究 21・22
■ 幸福否定の研究 21 症状とは何か?
前回は「無意識下の現象」というテーマを取り上げました。治療者の理解度や姿勢が心理療法の効果、特に症状の軽減に関係してくるのではないか?という内容です。今回はそこから展開させて、私が考える「”症状”とは一体何か?」というトピックを、笠原氏の心理療法(即ち”幸福否定”です)の勉強を始める前と後とに分けて書いてみたいと思います。(注1)
■ 笠原氏の心理療法勉強前(2005年まで)
ここ数年、私は心理療法を中心にした施術をするようになっていますが、本来は東洋医学を基盤とする施術を行っていたため、がんや脳梗塞の後遺症など、身体の病気を持った患者さんも数多く施術してきました。
命に関わる病気の施術経験も多いのですが(注2)、がんを筆頭に、命に関わる病気というものは症状がないまま進行することが数多くあります。胃腸を例にとってみると、心因性の症状や、疲労、冷えなどの症状は強くでますが、がんなどは気がつきません。また、”もの言わぬ臓器”と言われる肝臓が代表的ですが、腎臓、膵臓なども症状が出にくく、症状が出たときは手遅れである場合も少なくありません。/div>
「がん患者に危機感が乏しい」事は、笠原氏が指摘していましたが、私見ではがんに関わらず、全般的に命の危険に近づき、大事になるほど症状が軽く、患者も危機感に乏しいという印象があります。
逆に、生命の危機には全く関係のない精神疾患や喘息やアトピー、自律神経失調症、神経痛などの症状は非常に強く出ます。また私の経験の中で、症状が非常に強く、対応が難しい疾患の一つに線維筋痛症があります。全身のあちらこちらの神経が痛むのですが、いったん施術をすると今度は別の場所が痛くなるなど、症状があちらこちらに動くのです。おそらく痛みを訴える場所に身体的な異常があるわけではないと推測できますが、痛みが尋常ではないので、患者の苦痛は想像を絶するものになります。(注3)
上記のような経験から、漠然と、(生命の危機という視点から)本当の意味で異常性が高い疾患ほど症状が出ない、わかりにくい、という認識がありました。(注4)
症状の考え方について調べてみると、1000年、2000年を超えて、西洋医学、東洋医学の区別なく、以下のように考えられてきました。(注5)
異常があるから症状が出る、また、症状は異常を知らせるもの
私自身は”異常があるから症状が出る”という考え方について、漠然とおかしいと感じてはいたものの、それ以上の追求はしていませんでした。
■ 笠原氏の心理療法勉強後
笠原氏の心理療法を勉強する前は、上述の通り私自身が症状の原因を一つ一つ精査する習慣が身についていなかったため、漠然と、“命に関わるという意味で、重大な異常ほど症状は出ない”と、不自然さを感じるのみに留まっていたのですが、(心理療法で)症状を一つ一つ精査する事を学んでから、”異常があるから症状がある”という医学の前提そのものが間違っているという思いが強くなってきました。
その一つの例をあげてみます。
「イタリアの登山家 ラインホルト・メスナーは、岩場から転落したたくさんの登山家の体験をまとめた著書を出版している。この著書は、さまざまな点で貴重である。(中略)メスナーは次のように述べる。"事故に遭った登山者の一部はたしかに事故後登山をやめてしまう。しかしそれはごく一部である。この点について私自身の調査によると、大なり小なり事故のあった登山者で、その後山へ行くことを尻込みした人はわずかに2.4パーセントである。むろん残りの97.6パーセントのうち11パーセントが、事故体験を精神的に克服するまでに長い時間がかかったと告白している。しかし、この11パーセントがすべて非常に軽い事故だったことを考えると、重い事故よりも軽い事故のほうが精神的外傷が大きく、その体験も、大きい事故の場合より重いと結論していいだろう。…ただし断っておくが、私は事故または転落の重さを、その転落の軽重(例えば廃疾など)でいっているのではない。むしろ私は転落の重さを、その転落の結果死ぬ確率だけで判断しているのである。ショックの強さはこのように致死率を意識するかどうかにかかっており、しかもショックの強さは転落の重さに反比例するのである。死の可能性が大きければ大きいほど、それがわれわれの心性に及ぼす作用は軽い”(参考:『死の地帯』 ラインホルト・メスナー p97)一読しておわかりいただけるように、これは、常識とは真っ向から対立する大変重要なデータである。」
(以上、笠原敏雄『なぜあの人は懲りないのか 困らないのか』 p164~165)
メスナーの文章は、同じ命に関わる事柄ではあっても疾患そのものではなく、事故後の精神的な症状なので少し意味は違いますが、”重大な出来事だから症状が出るわけではない”というケースの傍証になり得るでしょう。
また心理療法の追試においても、大きな出来事が症状の原因となっていることもありますが、小さな出来事のほうが症状の原因になっていることの方がずっと多いという印象を持っています。
笠原氏は著書で主に心因性の症状にしか触れていませんが、私が実際に様々な質問をした限り、身体の症状についても、”(命に関わるという意味で)異常性の高さが症状の重さに繋がる”という常識的な考え方はしていませんでした。
■ では、症状とは何か?
症状が異常を知らせるためのものとは限らないとすれば、では一体何のために出ているのか?という疑問が出てきます。
パソコンを長時間やったから目が疲れた、変な姿勢を続けていたら腰が痛くなった、徹夜明けでボーッとする、怪我をしたから痛い、などのわかりやすい症状は身体の異常を知らせるサインとしての役割として考えられます。(注6)
しかし、表面的なわかりやすいものを除けば、症状は問題が表面的ではなくなるほど常識とは違う意味を持ちます。
「心因性の症状が目的とする”幸福否定”」(前回までのエントリを参照して下さい)であったり、命に関わる疾患に多い無症状、無自覚であったり、どちらかというと”本質を隠すため”に出ている事のほうが多い気がします。ケースごとに意味合いが違うので一つ一つ精査をしないといけないのですが、現実的には医療関係者も患者も、“怪我をした場所が痛い”の延長線上で身体の内部の症状、心因性の症状、寿命が関係する症状までをすべて一括りにしているような印象があります。
いずれにせよ、現在のところ私は以下のような前提に立って”症状”を捉え直さなければならないのではないか、と思っています。
・症状は、“異常があるから症状がある”という単純なものではない。むしろ重要度が増すほど、本質を隠す手段として使われる。
・身体の表面的な症状ほどわかりやすく、心因性の症状や身体の内部の症状になるほど、症状の意味や原因がわかりづらい。同じ症状でも、因果関係や目的が違うので、一つ一つの精査が必要。
・異常があるのに症状がないという無症状、無自覚状態も”症状”として考えなければいけない。
“症状”を考えるという意味で、次回はストレス、トラウマ理論に立脚している現在の精神医療の問題点を簡単に紹介したいと思います。
注1:前回、”今後、笠原氏の症状の考察を踏まえて、「症状とは何か?」という根本的なことを私なりに考えてみたいと思っているのですが、まずその補完的なトピックとして、次回は「無意識の認識能力」という観点から分子生物学での研究を簡単に紹介したいと思います。”と書いたのですが、日進月歩の分野で、新たに調べなければいけない事も出てきたので、予定を変更して「症状とは何か?」に進みたいと思います。ご了承下さい。注2:がん、心臓疾患、脳梗塞の後の後遺症、肺炎の施術を経験しています。注3:末期がんの患者でも骨転移が起こっているケースでは強い痛みがでますが、場所も原因もはっきりしているので、東洋医学での施術は、繊維筋痛症の痛みに比べると、やりやすいという印象があります。注4:同じ命に関わるものでも、肺炎などは症状が出ます。現在は少なくなりましたが、結核などの感染症でも症状が出るので、外部に原因があるものと、内部に原因があるものとでは根本的な違いがあるのかもしれません。注5:この考え方が出てきたのは、ヒポクラテス( 紀元前460年頃 – 紀元前370年頃)の頃からで、それまでは、疾患は本人や家系の人物が、その土地の信仰などに背いた災いと考えられていたようです。 (参考:『近代医学の史的基盤・上』/ 川喜田愛郎著)注6:同じパソコンの眼精疲労でも、ゲームより仕事で使用している時のほうが症状が強ければ、その差から”幸福否定”の心因性症状を疑います。
■ 幸福否定の研究 22 症状とは何か?2
前回は”症状”というものに対する私なりの考え方を書きました。主旨としては、これまでの患者さんに対する治療経験も踏まえた上で、”症状の強さは異常の程度と比例する”という、西洋医学の伝統的な考え方が必ずしも当てはまらないケースもあるのではないか?というものでした。
その延長にあるものとして、前回の最後で、「ストレス、トラウマ理論に立脚している現在の精神医療の問題点を簡単に紹介したい」と書いた通り、今回は笠原氏の心理療法の追試を踏まえ、現在の精神医学が孕む問題点に関しての私見を述べたいと思います。
(主に、笠原氏の著書、『加害者と被害者のトラウマ(国書刊行会、2011年)』を紹介する内容になります。)
■ PTSD理論の問題点
笠原氏は、現在の医学の主流になっている、”精神症状の原因がストレスまたはトラウマである”という説に反論しています。(注1)、(注2)
まず、PTSD理論の問題点については以下の7点を挙げています。
1.昔からある”発展途上国型”の”虐待”と、最近になってから起こる”文明国型”の虐待を、異質なものとして区別していないこと。2.被害が先に確認される事例と、症状が先に問題にされる事例を、異質なものとして区別していないこと。
3.原因に関係する出来事の直後から起こる症状と、時間を置いてから起こる症状を区別していないこと。
4.自然災害による被害と、人災および犯罪による被害を、異質なものとして区別していないこと。
5.虐待や犯罪の場合、被害者と加害者の間柄(身内か、見ず知らずの他人か)を問題にしていないこと。
6.正常反応と異常反応を、異質のものとして区別していないこと。
7.どのような症状についても、その原因が科学的方法によって突き止められているわけではないこと。
(引用:『加害者と被害者のトラウマ』 p41)
また、PTSD理論が科学的な方法によって導き出されたものではなく、主として政治的な運動を背景に発展してきたことについて、具体的な資料で指摘、批判しています。
私自身のスタンスとしては、現在のところ日々の患者さんに対する治療、心理療法を通じて、一つ一つ”証拠”を積み上げています。しかし、それをしないにせよ、”厳しい環境に居たから強くなった。甘い環境に居たから弱くなった”という、(主にスポーツの世界で)日常観察されるような現象が、ストレス理論、トラウマ理論では説明がつかないのは容易にわかることです。
また、時代を遡ってみれば、あらゆる面で不備が多かった過去の社会の方が現代社会より遥かにストレスが強いはずですが、実態としては前者の方が後者より精神症状は少なく、後者においても、先進国より環境面で過酷な発展途上国のほうが精神症状は格段に少ない、という事実もストレス、トラウマ理論とは矛盾しています。
筋道立った理屈、論理でに考える能力さえ持っていればすぐに破綻が分かる(と私は思うのですが)理論が医療関係者、科学者を含め、常識となっているのはどういう事なのでしょうか?
■ 受動的存在ではなく、主体的存在である人間
笠原氏は、ストレス、トラウマという根拠のない概念が暗黙の前提になってしまっている事に対して、”人間を環境に翻弄される受動的存在(と暗黙裡に)見なす”(同上p86)という批判をすると同時に、”人間は主体的存在である”という主張をしています。
この点は、私も同意見です。
なぜなら、【反応を追いかける】、【症状の直前の記憶が消えている出来事を探る】という科学的な方法論で確認して、同様の結論を得たからです。(参考:当連載 12回~16回)
小坂医師も、笠原氏も、そして私も最初はPTSD理論、ストレス理論から出発しています。小坂医師、笠原氏と私が違うのは、私が主に東洋医学の理論、オステオパシーの頭蓋仙骨療法の理論、TFT療法など代替医療を中心に学んできたことです。それでもPTSD理論とストレス理論を簡単に受け入れてしまったのは、他の医学も原因を外部に求め、人間を受動的な存在とみなしているからです。(注3)
話が少し大きくなりますが、私は、現在の医学に散見されるある種の問題点は、時代性に拘束される固有の問題ではなく、人類が数千年の間ずっと避け続けているものに関係しているのではないか?と思うのです。では、根拠が無いのになぜ、人々は様々な心因性症状の原因を外部に求めたがるのか?
笠原氏は(対象は現在の精神医学ですが)、大雑把に要約すると、”ストレスを乗り越える事や、自らの失敗や罪を反省する事の先にある、人格や品性の向上(=真の喜び)を避けている結果としてPTSD理論が生まれている”(筆者要約)、と主張しています。
彼が主張する、以下の2つの事柄、
1.ストレスを乗り越える事
2.失敗や罪の反省
これらに対しては、それぞれ心理療法と関連書を通じて、私自身も同様の結論を得ています。(注4)
心理療法の追試を通して、本心では人格の向上というものを望みながら、”抵抗”(この連載で繰り返し使ってきた言葉です)に直面し、跳ね返される事を繰り返すのが人間の特徴であることがわかってきました(跳ね返す一つの手段が精神症状なのです)。この点に関して、過酷な状況に置かれ、必要に迫られる形で人格の向上を望む人々がいる一方、ある種の冒険家、スポーツ選手、芸術家のように、自ら困難を望む人々も存在する、ということが一つのキーになるのではないでしょうか。
次回は、さらに壮大なテーマになってしまいますが、そういった人間の人間たる特徴(他の動物とは違うところ)は何か?という事について考えてみたいと思います。
注1
私自身は、ストレス理論に関しては心理療法の追試を始める前から違和感を感じていました。なぜなら、主に、うつ状態や自律神経系の不定愁訴、パニック障害などの患者さん本人から、”思い当たるストレスがない。普通のストレスはあるけど、特にこれといった出来事や悩みはない”と言うのを何度も聞いていたからです。また、例えば長年の介護の後など、過酷な状況の後に症状が発症するケースもよくあります。この場合は、医師から”長年のストレスが溜まったから症状として出てきた”、または、”気が付かないストレスがある”、という説明を受けているようです。そうであれば身体の疾患のように傾向として年輩者のほうが多くなるはずですが、実際は若年層、中年層が中心になっています(ただ、うつ症状などは実際に仕事や介護など過酷な精神状況での発症もありますから、漠然とした違和感に留まっていました。ストレスで発症する事も当然存在するが、そうではない場合も考えうる、ということです)。心理療法の追試をはじめる前までは、同じうつ症状でも、今現在の状況が過酷だという事がはっきりしている患者はストレスが原因、今現在の状況が取り立てて大変ではないのに発症した患者は他の事が原因(主に化学物質の蓄積、電磁波などの環境的な原因を考えていました)、さらに何度も症状を繰り返したり、症状の転換が起こる患者は自虐性が強い、などと考えていましたが、現在は程度に関係なく、原因は幸福否定にあるという見解を持っています。PTSD理論に関しては、催眠療法の現状を勉強した際、そのロジックでは成り立たない事態が起きていることを知りました。1990年代に”催眠療法によって幼児時に虐待を受けた記憶が蘇った”として、親を相手取った訴訟が次々に起こりましたが、実際には虐待がなかったケースや原告の証言に辻褄が合わないケースが多数出てきたため、逆に患者の親が患者を訴えたり、患者がセラピストを訴えるケースが相次ぎました。(参考:『危ない精神分析―マインドハッカーたちの詐称』 矢幡洋著)原因を幼児期の人間関係のみに絞る事、また仮に虐待があったとしても、数十年経ってから症状が出ることの説明ができないことから、PTSD理論には無理があることははっきりしていると感じています。
注2ストレス理論は1930年代半ばに、生理学者ハンス・セリエが提起した主張が原型になっています。セリエは、以下のように述べています
“一連の動物実験によって、生物体が外界からの刺激(ストレッサー)に直面した時に、自らの破綻を回避する目的で、警告期、抵抗期、疲憊(ひはい)期という3段階からなる、非特異的な(一定の)適応反応を起こすことが明らかになった”
その刺激は、外傷、出血、感染、薬物、寒暖、心理的刺激、絶食など、さまざまな”有害作用”まで拡張されましたが、これらは正常な自己防衛反応を引き起こします。その後、”小さな心理的ストレス”でも身体的変化が起こることが確認されていますが、あくまで正常な自己防衛反応の範囲内です。それが拡大解釈され、現在のストレス理論に繋がっているわけですが、自己防衛ではない、明らかな異常反応に対して使われており、理論の飛躍があります。(以上、『加害者と被害者のトラウマ』 第7章を中心に筆者が笠原氏の主張を要約)※ 実例をあげると、正常反応=冬に一晩中外に居て風邪をひき、下痢になった。異常反応=会議の時になると、突発的にお腹を下し、その場に居られなくなる(過敏性大腸炎など)。これらの間に大きな差異が存在することは誰しも分かると思います。
注3
東洋医学では、主な病気の原因として、風、寒、暑、湿、燥、火の六淫を挙げています。また、怒、喜、憂、思、悲、恐、驚 を七情として心理面での要因に挙げています。(参考:『東洋医学概論』 医道の日本社 p62~63)その原因を外部に求め、人をストレスに弱い受動的な存在とみなす、という点は一致しています。
注4
心理療法では、犯罪について患者さんが積極的に話す事はほとんどありません。また、患者が実際に犯罪を犯している事もほとんどないと思います。「罪」の例として、法律的には問題ないのですが、人道的に問題がある例として、”友人を利用した”、”結婚するつもりもないのに避妊をせず、堕胎をさせた”などのケースが考えられます。そのような時は、抵抗を乗り越えたから正直に内容を話すようになったということで反省は済んでいる事になるので、心理療法内で深く掘り下げる事はしません。(あくまで、症状が出た直前を探る事に時間を使います)よって、犯罪に関しては関連書籍(主に手記)などで確認する事になります。
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