『人間性の否定と虚構の世界』ー9/1985年の日航ジャンボ機墜落に関する疑惑④

* 本連載の目的 *

本連載は、一次資料をもとに自分自身の頭で考えるというテーマで書いた『「お金・相場」に関する幸福否定の研究』の続編として位置づけています。

心理療法家の笠原敏雄先生が提唱した、「反応を追いかける」という方法論を使って明らかになった事や、経緯を書いていますが、主張内容は筆者個人のものです。

また、権力者や専門家を批判する内容もありますが、一般大衆の態度や要求も問題にしており、特定の層を糾弾する意図はありません。集団における異常行動の原因となる、幸福否定理論で説明できる心理的抵抗の検証を目的としています。


*大まかな流れ*

『「お金・相場」に関する幸福否定の研究』において、「お金とは何か?」という事に対して、多くの人において抵抗が強い事がわかりました。
その後、「核兵器・原子力」の分野と、「土壌」という分野においても、集団での抵抗がある事がわかっています。
本稿は、「核兵器・原子力」の集団抵抗と、その背景にある社会システムの分析過程という位置づけになります。


* 用語説明 *

幸福否定理論:心理療法家の笠原敏雄先生が提唱。心因性症状は、自らの幸福や進歩を否定するためにつくられるという説。娯楽は難なくできるのに、自らの成長を伴う勉強や創造活動に取り組もうとすると、眠気、他の事をやりたくなる、だるさ、その他心因性症状が出現して進歩を妨げる。このような仕組みが特定の人ではなく人類にあまねく存在するという。

抵抗:幸福否定理論で使う”抵抗”は通常の嫌な事に対する”抵抗”ではなく、許容範囲を超える幸福、自らの成長・進歩に対する抵抗という意味で使われている。

反応:抵抗に直面した時に出現する一過性の症状。例えば勉強しようとすると眠くなる、頭痛がする、など1985年の日航ジャンボ機墜落の疑惑に関して、国、官庁、専門家、報道関係などのいわゆる「権威」の実態と、大衆の側の問題点という視点で書いてみたいと思います。

前回は、日航123便の機体の異常発生原因、墜落原因について、広義の意味での政府(自衛隊・警察も含む)の公式発表と、「自衛隊が訓練中の誤射を隠蔽するためにミサイルで撃墜したとする説」の双方において、不自然な点があるという事に言及しました。

今回は、事故直後の墜落場所の特定、乗客の死因における、政府と真相究明を目的とする側の不自然な点について書いてみたいと思います。

=墜落場所に関する政府の情報操作の疑惑=

まず、墜落場所に関する情報操作の疑惑について検証してみたいと思います。

1985年8月12日の日航123便の墜落直後の状況について、当時の目撃証言を見ていきます。

小学4年生 Hさん(引用:『小さな目は見た』)
8月12日の7時ごろ、かみなりみたいな音がしました。外に行ってみると、じえいたいのヘリコプターが、楢原(筆者注:ならはら・上野村の地名)のへんを、ぐるぐる回っているからおかしいなあと思っていたら、テレビで、日こう一二三便が、長野県と群馬県のさかいめのへんにおちたといいました。

中学2年 Hさん(引用:『かんな川 5』)
私は、その日、八月十二日の七時前ごろにドシーンという音を聞いた。今思えば、それが、この日航ジャンボ機が落ちた音だったのかもしれない。その時は、カミナリかと思ってききながしていた。でも、そのしゅんかんに五百二十人もの人が亡くなったのかと思うと、みのけもよだつようだった。
午後六時五十七分ごろに、テレビで、レーダーから消えたというので、テレビをずっと見ていたら、ニュース速報で、日航ジャンボ機が墜落したということをしった。でも、私はこの時、世界最大の事故がおこったとは思いもよらなかった。
午後七時三十分ごろから、八時ごろの間だと思ったが、私が、一休さんを見ていた時だと思う。私の家の屋根の上のほうで、ヘリコプターなどが飛んでいるので、お父さんが帰ってきて「日航機が落ちたんで、このヘリコプターでそうさしてるんだべー。」と言ったので、そうかと思った。

NHK報道
(前略)そして斜めに傾いて、群馬と埼玉の県境方向に飛んでいったが、1、2分したら雲の下のほうが真っ赤になった。その後、雲がピンク色になり、原爆のキノコ雲のような形になった。その後5分程して白い煙がのぼり、さらに20分程でヘリコプターが飛んできている。


文集には、複数の目撃証言として、墜落当日の7時半過ぎには、ヘリコプターが墜落場所の上空に飛来し、現場を照らしながら長時間旋回していた様子が書かれています。

日航123便が墜落し、炎上している場所は、はっきりわかっていた事が推測されますが、消火活動や、食糧その他の生存に必要な物資の投下は行われていなかったようです。

また、ヘリコプターが旋回して、サーチライトで照らしてる場所から、以下の証言のように、日航123便が上野村に墜落した事は、複数の地元住民が把握していたようです。(以下、引用『小さな目は見た』)

小学3年生 H君
ひこうきがおっこってうるさかった。(中略)
ぼくは、じむしょのNさんという人と、ちずをみながら、すげの沢のどこらへんにおっこったか、よそうでしらべました。すげの沢のちかくは、お父さんなんかが二十年くらい前に、木をうえにいきました。
(筆者注:スゲノ沢は日航123便の墜落場所)

小学6年生 Eさん
八月十二日月曜日の夜、七時三十分ごろ私の家の上が何かの音でうるさくなりました。私は何だろうと思って外に出て見たら、ヘリコプターが何台も夜空を飛んでいました。(中略)
そして夜中の一時頃姉がNHKに電話して、「絶対に日航機123便は、上野村に墜落していますよ。」と言ったら、NHKの人が「はい、ありがとうございました。」と言いました。


一方、墜落直後から現場上空を旋回していた自衛隊、運輸省、政府、報道関係はどのように墜落後の状況や現場を把握していたのでしょうか?

まず、日航123便の墜落後の現場の特定に関して、朝日新聞社会部編『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』(以下、『朝日新聞24時』)を参考にしてみます。

同書によると、午後八時半、朝日新聞社のヘリコプター「ちよどり」が羽田空港を離陸し、現場に向かい、九時六分に群馬側で散らばっている炎を発見し、写真を撮影します。この時、現場で超低空飛行の捜索へリの衝突防止灯を確認し、九時十分に現場の炎を撮影しています。

その後、九時三九分に群馬県警察本部に「群馬県・長野県境のぶどう峠で白煙があがっている。」と目撃情報があり、NHKが報道。近隣住民が多数、長野県のぶどう峠に集まりますが、その一方で、群馬・長野県警のパトカーが、三国峠で合流し、炎を確認。墜落は群馬側と推定されました。

しかし、錯綜する情報の中で、九時五十九分に自衛隊空幕から運輸省運用課に、現場の位置は「長野県北相木村の御座山北斜面」と連絡。それを根拠に、日航が22時03分に「御座山北斜面」と発表したため、現場の位置は長野県側と確定したと、当事者達は判断したようです。(参考:『朝日新聞 24時』p79,80 『御巣鷹山の謎を追う』p97~100 /米田憲司著)

朝日新聞社は自社のヘリコプターで群馬側に炎を確認したものの、機体を確認していなかったため、もう一度、ヘリコプターを飛ばします。


十時五十分、「ちよどり」は藤森と近藤を乗せて再び現場へと向かった。(中略)十一時三十五分、現場到着。まだそこだけは晴れていた。自衛隊情報として流れた「現場」、御座山付近を含めて、いくつかの山腹にへばりつくように飛んだ。着陸灯で機体を探し出すのが、唯一の目的であった。しかし、光がうつし出すのは樹林ばかりだ。やはりあそこしかない。前に見た円状の現場に引き返した。一回目に比べると、点在する火は十数か所に減っていた。燃えている日も少しずつ弱まっていく。その炎上現場でも、機体はついに見つからなかった。

整備士高橋はその現場をビデオムービーで撮った。はるか下方に自衛隊機と思われるヘリ一機、青と赤のライトが点滅している。「ちよどり」もかなり低い高度で接近しているのに、そのヘリは、さらに下方を飛んでいる。二次災害にならなければいいが、と高橋は思った。(中略)二度目の計測をした。
(中略)その現場は明らかに群馬側だった。長野ではないのだ。

(中略)テレビニュースの伝える墜落位置は相変わらず変転している。(中略)藤森はパイロット関口たちと声に力を入れて話し合っていた。「われわれの現場位置確認が絶対正しいな。自衛隊はどうしたんだろう。」(中略)この時はもう現場は群馬だ、と自信を持っていた。
(引用:『朝日新聞24時』p88~90』


このように、各新聞社は自社のヘリコプターにおける現場特定で、群馬県側に墜落したという事はわかっていたようですが、公式発表との整合性が取れないため、混乱をしたようです。

但し、NHKにおいては、

21:39分「御座山中腹で煙を見た」というぶどう峠からの目撃談
22:03分「御座山斜面で炎上中」

と、不自然に長野県側に偏った報道を続けます。

そのため、ヘリコプターとは別に、陸路で現場を目指した報道関係者は、公式発表を根拠に、事故当日から翌朝にかけて、長野県の北相木村で待機をしていました。

翌朝5時頃、墜落場所は群馬県御巣鷹山という発表があり、また、123便が放射性物質である、医療用アイソトープという放射性物質を積載していたため、群馬県警から翌朝9時まで現場への立ち入りを控えるように通達が出されました。

しかし、

・長野県警は当初から墜落は群馬県側と発表していた事
・墜落現場が御巣鷹山だと発表があった13日の午前5時には、省庁や警察はすでに出発した後であった事

から、待機現場に居たジャーナリストの松井道男氏は

長野県北相木村の御座山が墜落現場だというのでそこに集まった報道関係者は皆ブウブウ文句を言った。胡散臭いというか政府は現場に入らせたくないので意図的に嘘の墜落現場を発表したのではと密かに疑った。(引用:『イン・ディス・クリミ・ナト・リー』p28 /松井道男著』

と記述しています。

*上野村消防団・猟友会の証言

上野村の小中学生の文集には、お父さんが山へ救助に行ったという主旨の内容が多く出てきますが、墜落当日の12日から翌朝の13日までの、上野村の消防団・猟友会はどのように活動していたのでしょうか。

角田四郎氏は『疑惑』の中で、上野村消防団の若者の証言を取り上げています。要約すると、

・川上村住民の「山の向こうへ飛んでいって煙が見えた」という証言や、ヘリコプターの旋回場所から、群馬側のスゲノ沢が墜落場所という事は確信していた。

・救援に出発しようとしたら、機動隊が着くまで待機するように県警から待機するよう指示が出た。

・車で林道を行けば、山を歩く距離が短くなるため、暗いうちに車で林道の山の入り口まで行こうとしたが、待機の指示が出た。

・翌日からは山に救援に来ないように指示された。
という内容になります。(参考:『疑惑』p121~124)

また、青山透子氏の著書においても、

(筆者注:12日の)21時に県警から藤村輔二郎上野村猟友会長に電話で、山案内を頼まれたため、猟友会が集合。しかし猟友会の意見を無視して上からの命令の場所へ誘導される。そこは墜落場所ではないと再度主張。その結果、2班に分かれて移動した。しかし機動隊の足が異常に遅く、現地へ到着せず、自衛隊ヘリによる道案内も違う場所を空から指示。空が明るくなっても、機動隊は別の場所を主張。消防団、猟友会独自にスゲノ沢へ移動。夜明けとなると急に機動隊はレンジャー部隊編成のためと言い、本部へ引き返した。(引用:『目撃証言から真相に迫る』p197)

との記述があります。

公式発表通りであれば、

・現場の特定作業の難航
・日航123便が放射性物質を積載していた

という理由で、13日朝までは記録が残っている数名の偵察隊を除いて、自衛隊や、その他の救助活動を行う関係者は、現場に入る事ができなかったという事になります。

しかし、当時の証言を見る限り、現場に赴いた関係者(群馬県警、長野県警、自衛隊、上野村消防団、猟友会、報道関係者など)は現場の特定の特定に関しては、現地調査によりある程度できていた事が推測されるため、現場の特定作業が難航して救助が遅れたという政府の主張は成り立たない事になります。

実際には、現場確認をした関係者の意見が全く無視され、待機、もしくは違う場所に移動するように指示が出たため、墜落翌日の13日の朝になり、地元消防団、猟友会と、機動隊がようやく現場に向かう事になり、午前9時半頃に墜落現場に到着します。(長野県警レスキュー隊も同時刻に現場に到着)
しかし、最初に現場に到着した上野村消防団・猟友会の団員は、不自然な事に、現場で山の上から降りてくる自衛隊員と遭遇する事になります。


*公式発表前に現場に入っていた自衛隊の目撃証言

引き続き、ジャーナリストの松井道男氏が群馬県警機動隊を案内した上野村猟友会の役員にインタビューした際に得た証言を引用します。

「私たち上野村猟友会の会員11名が群馬県警機動隊を現場に案内することになりました。私たちは歩き慣れた山道です。重装備の機動隊はどんどん遅れました。先頭に立っていた私たち3名が墜落現場に入った時には1キロくらいは遅れていたと思います。あまりにも凄惨な現場だったのでしばらく立ちすくんでいると頂上のほうから自衛隊の制服を着た人が3名下ってきました。そして唖然としている私たちにご苦労さんと敬礼して機動隊が歩いてくる獣道とは違う方向へと下っていったのです。」(『イン・ディス・クリミ・ナト・リー』p28 /松井道男著

また、青山透子氏は、取材において同様の証言を得ており、著書『日航123便墜落 遺物は真相を語る』の巻頭に写真を掲載しています。

巻頭カラーの写真1は八月十三日早朝に撮影された現場写真であるが、その上部に写っているのは消防団員でも警察官でもなく、自衛隊員である。沢から入った人たちより早く山頂から下りてき隊員がいた。それをどう考えるのか。(引用:『遺物は真相を語る』p108)

さらにゼミで長野県に宿泊していた、立命館大学の深井純一教授は、上野村消防団より早い段階で、救援のために独自に現場に入り、何かをつり上げている自衛隊のヘリコプターを目撃しています。(参考:1985年8月28日 朝日新聞朝刊)

以上の、当時の証言を踏まえると、現場の関係者においては、墜落現場のある程度の特定はできており、生存者救出を第一目的にすれば、より迅速な救助を行うことができた可能性がある、と考える事ができます。

それを阻んだのは、

・組織の縦割り構造の弊害で、状況判断と命令を円滑に行う事ができなかったため、救援活動が遅れた。

・何らかの理由で現場に救助隊を入らせないという意図で、政府が動いていた。

の、どちらかという事になりますが、状況証拠のみとなるので、判断は読者に任せたいと思います。

=搭乗者の死因に関する情報操作=

次に、生存者と検視医師の証言から、搭乗者の死因について考えてみたいと思います。

まず、生存者の証言から見ていきます。

*生存者の証言(墜落直後の生存者に関する部分の抜粋)

川上慶子さん(当時12歳)の証言
「(前略)暗闇の中、ヘリコプターの音が聞こえてきて、目が覚めた。赤い灯りも見えて、真上まで来て止まって、「あぁ、これで助かるわ」と、みんなで言ってたら、ヘリは引き返した。
これで、場所が判ったから、またみんなで、たくさん来てくれると話したけど、それっきり来んようになった。そのうち、みんな話さなくなった。(中略」

落合由美さんの証言
 
墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。

 「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。

 次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。

 シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手でけです。頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあったたので、どかそうと思って、押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。

どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。

それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。

突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。

私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした。

やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。

このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。(以下略)
(引用:『墜落の夏』p132~134/ 吉岡忍著)

 

以上の証言でわかるように、特に機体後部においては、墜落直後にかなりの生存者が居た事がわかります。

また、墜落後に生存者に関して、

「奇跡の生還もっといた 発見あと10時間早ければ 医師団検視でわかる」
(筆者注:大多数の遺体は即死だったが、何体かにおいて)
「脳挫傷や内臓破裂など、外見上特に死因と思われる所見がなく、失血とかショック死など墜落後も数時間生存していたと思われる。」(複数の検視医)
(引用:1985年8月16日 中日新聞朝刊)

という、検視をした医師の証言を掲載している新聞記事もあります。
通常であれば、救助の遅れにより、生きていた搭乗者が死亡したと考えられますが、遺体の状況が、単なる救助の遅れとは考えにくい状態であった事から、青山透子氏は墜落現場での殺害の可能性を示唆しています。

*炭化遺体

青山氏が著書において指摘している、遺体の不自然な状況の要点は次のようになります。

・群馬県警察医で、犠牲者の検視・身元確認本部の歯科医師団総括責任者であった大國勉氏が、カリカリに焼けた炭化状態の遺体が不自然である、という主旨の発言をしている。青山透子氏の調べによると、ジェット燃料による火災では、遺体は炭化しない。(『遺物は真相を語る』 p60~p61)

・機体前部から中央部の乗客の遺体の炭化が激しい。乗客は投げ出されたため、尾根の向こう側など遺体が広範囲に渡って広がっていたが、遺体の場所に沿うようにして長時間の火災が起こっている。(『遺物は真相を語る』 p81)

・機体後部は沢(スゲノ沢)へ転落し、4人の生存者が発見された。144人の遺体は完全遺体であった。そばにNo1エンジンとNo2エンジンが二つ転がっていたが、ジェット燃料の貯蔵部分の右主翼の一部であるにも関わらず燃えていない。他の燃料貯蔵部分は左主翼が燃えておらず、右主翼はその周辺が燃えていた。(『遺物は真相を語る』 p81)

・青山氏の調べによると、上野村住民が墜落現場で拾った塊をICPーMS(誘導結合プラズマ質量分析計)という方法で分析すると、80%を超えるアルミニウム合金と他の物質の定量の割合から、航空機の機体構造における材料の超ジェラルミンだと考えられる。(『遺物は真相を語る』p126~134)
この塊からベンゼン(炭素が六角形状になったもの)が検出された。
ベンゼンはジェット燃料(ケロシンや灯油)に含まれるものではなく、ガソリンに含まれる。(『遺物は真相を語る』p139)

・青山氏の言説によると、墜落当初はケロシンという航空機火災が起き、数時間後に医師たちが「二度焼き」と書いた火災が起きた。現場に落ちていた航空機材料から硫黄成分も検出されておる、成分を総合的に考えると火炎放射器の使用の可能性がある。(『遺物は真相を語る』p149)

・検死が開始された8月15日から、検死が終了した12月20日まで、ほぼ全ての日に出勤した、土肥福子歯科医師の証言と検死の資料によると、客室乗務員11名の制服が全くと言っていいほど燃えていなかったが、2名が炭化していた。(『遺物は真相を語る』p97、108~111)

このように、当時、検視を行った責任者や主要人物も、遺体の不自然さに関して言及している事、また遺体の写真が残っており、ジェット燃料でカリカリの炭化状態になるのかは、現在でも検証できる事などを踏まえると、「乗客は墜落で死んだのではない」という説は、単なる陰謀論ではなく、再検証に値する説であると言えるのではないかと思います。

特に、機体が燃えていたわけではなく、遺体に沿って火災が発生していたという事実と、朝日新聞社のヘリコプターが墜落直後の炎上の中、機体を発見できなかったという記録を併せて考えると、炎上していたのは何だったのか?という新たな疑問が出てきます。

また、青山氏は遺体のみならず、乗務員の制服に関しても不自然な点がある事を指摘しています。

*機長の制服

青山氏の著書には、乗務員の制服に関して、以下の証言が掲載されています。

・土肥歯科医師は、機長の制服が無くなっており、副操縦士、航空機関士、客室乗務員の制服は残っていた、と証言している。機長の遺体は一部しか残っていないが、炭化はしていない。(『遺物は真相を語る』p97)

・機長の遺体が2回運ばれてきており、どちらも制服がない。(参考:『隠された遺体』)

青山氏は機長の制服がない事に関しては、

あくまで想像の範囲だが、一つの可能性として考えられることは、機長の制服の中に「何かがある」ことを恐れた人が、墜落後に回収したのではないだろうかということだ。(『遺物は真相を語る』p116)

と、書いています。

筆者は別の見方をしていますが、この点については次稿で扱いたいと思います。

次は、残された証拠物の取り扱いに関する疑惑です。

=証拠物の取り扱いに対する疑惑=

事故原因がボーイング社の修理ミスによる圧力隔壁の破損が原因であれば、証拠物を隠す必要はないのですが、事故後、時間を経てからも、隠蔽の意図があるのではないかと疑われても仕方のない、不自然な証拠物の取り扱いが行われています。


*検死・身元確認現場の記録
日本大学名誉教授であり法医学者の押田 茂實氏が検死や身元確認現場を撮影したを撮影した8ミリビデオのテープを群馬県警に任意提出したが、押田氏の返却要求にも関わらず返却されていない。(『日航機123便 遺物は真相を語る』p169~174)

*遺体の封じ込め
上野村に、身元不明のご遺骨、骨粉、後に見つかった遺体が納められている慰霊場と納骨堂がある。(昭和61年8月3日 完工)
将来、DNA型鑑定の進歩で身元が判明する場合もあると、遺族から反対する意見もあったが、納骨堂の扉は永遠の眠りを妨げないようにと、石造りの開かずの扉となっている。(参考:『日航123便 墜落の新事実』p149/ 青山透子著)

以上が、墜落現場特定、搭乗者の死因、証拠物の取り扱いに関する、政府の対応に関する疑惑の要点となります。

=まとめ=

前回から、機体の異常発生原因、墜落原因、墜落場所の特定、搭乗者の死亡原因、証拠物の取り扱い、とそれぞれにおける不自然と思われる点の根拠を挙げてきました。これらの根拠を踏まえて、

・日航123便における異常発生原因を隠蔽しているのではないか?

・日航123便は撃墜されて、墜落したのではないか?

・意図的に墜落直後場所の誤報を流し、墜落現場に救援隊を近づけない
ようにしたのではないか?(迅速に救助活動が行われていれば、機体後部の乗客は助かった可能性が高い)

・墜落後に生存者を殺害したのではないか?

・墜落現場で得られた証拠物を隠蔽しているのではないか?

との疑惑のが持ち上がっています。

筆者は、これらの疑惑に関しては、それぞれに筋の通った根拠が示されているので、再検証が必要であるという主張も、陰謀論ではなく、十分に説得力のある意見だと考えています。

しかし、これらの疑惑を追及する人たちは

・自衛隊の訓練中の誤射の隠蔽が、日航123便の撃墜、搭乗員の殺害の目的である。

・当時の中曽根首相と自衛隊が犯人。

という説を唱えています。

これに対しては、青山透子氏を筆頭に、真相を究明する側も意図的に避けている部分があり、攻撃しやすい対象に絞っている印象があります。

・ボーイング社は修理ミスを認めているが、墜落原因とはしていない。

・積載物の放射性物質。または飛行機部品に使われていた劣化ウランの所在。

・横田空域という米軍空域内に、わざわざ侵入して墜落したという事実の軽視。

など、日米の申し合わせがないと処理できない件が、置き去りにされたまま、自衛隊のみが犯人という主張が一人歩きしている印象があります。

また、日航123便の墜落の真相究明を目的とする側の最大の問題点として、

・川上村で目撃された日航123便と、日航123便が墜落する前に御巣鷹山で目撃された複数の飛行機を同一の機体として扱っている点

を挙げる事ができます。

・川上村で目撃された機体は、単独で不安定に飛行しており、山を越えてすぐに墜落音と爆発が見えた。当時の目撃証言で、垂直尾翼の異常に言及した証言がない。

・上野村で墜落前に目撃された複数機は、一定時間追いかけっこの状態で上空を旋回しており、墜落を目撃されていない。

これらを踏まえて、筆者は、川上村で目撃された機体と、上野村で目撃された、上空を複数機で旋回していた機体を同一機と考え、強引に自衛隊のファントムが日航123便を追い回して撃墜したと考えるのは、強引な論理展開と考えています。

御巣鷹山上空で墜落前に目撃された複数機の機体が、日航123便ではないとなると、

・日航123便の墜落場所があらかじめわかっていた。

・事前準備がある計画的な事件である。

という事になり、想定をさらに広げなくては、事実が見えてこない事になります。筆者は、この点において、真相究明という目的で自衛隊のみの責任を追及する側にも、幸福否定理論で言う「抵抗」が働いていると考えています。

次回は、事実を隠蔽している可能性がある政府と、日航123便の墜落の真相究明を目的としている側の双方が避けている点を検証してみたいと思います。

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