芸術と潜在意識 8:芸術作品鑑賞時に反応が出る条件①


連載【芸術と潜在意識】とは?

筆者が【幸福否定の研究】を続ける上で問題意識として浮上してきた、「芸術の本質とは何か?」という問いを探る試み。

連載の流れは以下のようになる。

・現状の成果…龍安寺の石庭の配置を解く
・スタンダール症候群の説明
・鑑賞時に<反応>“が出る作品
・鑑賞時に<反応>が出やすい条件
・芸術の本質とは何か?

=人物・用語説明=

* 今回、言説を参照する人物 *

笠原敏雄:小坂療法から出発し、ストレス・トラウマではなく患者本人の許容範囲以上の幸福が心因性症状の原因になっているという、幸福否定理論を提唱。”感情の演技”という方法で、患者を幸福への抵抗に直面させ乗り越えさせる、独自の心理療法を開発。また、日本を代表する超心理学者でもある。

グラツィエラ・マゲリーニ:イタリアの精神科医。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ病院に運びこまれる外国人観光客の症状を記録し、スタンダール症候群と名付ける。

* 用語説明 *

反応:抵抗に直面した時に出現する一過性の症状。例えば勉強しようとすると眠くなる、頭痛がする、など。

抵抗:幸福否定理論で使う”抵抗”は通常の嫌な事に対する”抵抗”ではなく、許容範囲を超える幸福に対する抵抗という意味で使われている。

スタンダール症候群:イタリアのフィレンツェで、観光客が起こす発作的な心因性症状。芸術作品鑑賞中や歴史的な建築物などで起こす事が多い。フランスの小説家、スタンダールが同様の症状を発症したことからスタンダール症候群と名付けられる。

(以下本文)

■前回から今回までの流れ—鑑賞時に反応が出やすい条件とは何か?

第6回、7回の二回は、〈実践編〉と称して、「スタンダール症候群が実際に出る芸術作品とはどんなものか」を、(私個人の経験も紹介しながら)検証してきました。今回からはさらに進んで、「なぜそうした反応が出るのか?その条件とは?」「芸術とは何か?」についての分析を、私がどのように研究を進めてきたかを振り返りながら書きたいと思います。

■「芸術の反応」の研究に進むもう一つの流れ

*社会の進歩の研究とアダム・スミスの『芸術論』

私自身が笠原先生の著作を読み、笠原先生の指導のもと、自分自身も心理療法を始めたのが2006年になります。当時はまだ患者さんに心理療法をやる段階ではなかったのですが、幸福否定を勉強しているうちに以下のような一つ大きな疑問が生じてきました。

・個人の幸福否定があるのはわかるが、個々ではなく、「集団の幸福否定」というものはないか?

「集団の幸福否定」とは、どんなものなのでしょうか?具体的に書いてみます。

・心因性症状に時代的な流行がある—患者が周囲にそのような症状があると知っているなら症状の流行も理解できるが、個々の患者は(例えばパニック発作や多重人格)症状を知らないのに、ある時代に同じような症状が発生する。

・時代による集団の変化—賭博、タバコなどの嗜好品に関する変化。人間が人間である以上無くならないと考えられていたものに、賭博、嗜好品などがあります。数千年以上続いていた、人類の“悪癖”が、ここ何年かで急速に衰退している。

・根本的な価値観の変化—数十年前まで子孫繁栄が人類の価値観の大前提であったが、人類の根本的な変化としては出生率の低下があげられる。自分のやりたい事、生き甲斐などを優先すると子供の数が減ってしまう。

上記のような変化は個々人の変化のみでは説明できない為、「人類の進歩」(注1)や「集団の進歩」といった概念があるように「マクロの進歩と幸福否定」というものもあるのではないか?と考えるようになっていました。さらに前年にリーマンショックが起こった事、また大学生の時に政治経済学部に在籍していたこともあり(注3)2009年に社会学や経済学の文章を本業の研究の合間に読むようになりました。

そして、同年9月頃の事ですが、アダム・スミスの『国富論』を読んだときに、非常に強い反応が出る事がわかりました。『国富論』と言えば、産業革命や資本主義について書いた経済学の古典中の古典です。

「なぜ『国富論』を読んだ時の反応が強かったのか?」

詳しくはその後の心理療法で探る事になりますが、この時点では、以下のような暫定的な結果がでました。(注2)

「社会の進歩と共に庶民に日常生活品が行き渡るようになり、生活に追われなくなった後の生活に関心があるのではないか?」

その過程で、著者のアダム・スミスについて調べたのですが、『国富論』と『道徳感情論』という主著があり、それ以外は断片的で完成していないものばかりなのですが、晩年には芸術に関する著書の準備をしていた事がわかりました。

*アダム・スミス『模倣芸術論』より

アダム・スミスは晩年に自身の未完の原稿を焼却したようですが、『天文学史』と『模倣芸術論』(注4)を遺稿として遺言執行人に託していたようです。『模倣芸術論』を読むと、最初に〈模倣〉の様々な例と、それに対する人間の感情についての考察があります。

・生活用品としてつくられた高度に技術なもの
・芸術作品として創作された、ある材料で異種のものを表現するという模倣
・宗教的建築物などの模倣

模倣について書かれたそれらの部分では、各模倣の意図を説明せずに、どのような感情を生じさせるか?という観点で書かれているので、少々わかりにくい、というのが最初に読んだ時の印象でした。

しかし、以下のような箇所を何度か読むと、芸術の条件に関して気付くことがありました。

「芸術作品は同種の他の対象への相似から、何らかの値打ちを引き出す事はめったにないとはいえ、芸術作品であれ、自然の産物であれ、異なった種類の対象への相似から多くの値打ちを引き出すことはしばしばある」

「模倣したものと模倣の対象とのあいだの不一致(注5)は、ある芸術では他の芸術よりずっと大きく、模倣から生じる快楽は、この不一致が大きいほど大きいと思われる。」

(引用:『模倣芸術論/アダム・スミス 哲学論文集』p155、アダム・スミス著)

条件とは何か?以下のようなものが当てはまるのではないかと思います。

・ある種のもので異種のものを表現する
・より困難なものを表現するほうが感動が大きい

紙と絵具で様々なものを表現するのが絵画ですし、彫刻においても木や石という材料と使って、他のものを表現します。例えば、桜の木の幹で梅の木の幹を表現しても、高い技術で精密に制作しても、感動を生み出さないと
思いますが、木という材料を使って、神仏や人間を見事に表現するから素晴らしいと言えるというのも納得できる理論だと思います。

ただ、この時点では表現対象がよくわからない抽象芸術には当てはまらないのではないか?と考えた事と、肝心の〈反応〉がアダム・スミスの文章では出なかったために、それ以上の追及はしませんでした。アダム・スミスの研究は、前述したように、「人類の進歩から、先進国の人々が余暇を手に入れる。その中の一つとして芸術活動がある」という流れで進んだので、「芸術とは何か?」という観点で芸術作品を考える事はありませんでした。

*芸術作品と哲学的作品の区別

その後、前回までの連載で書いたように、2011年のパリ旅行をきっかけに「芸術作品そのものの反応」を研究するようになりました。作品だけではなく、芸術に関する本も何冊か読みましたが、〈調和〉や〈美しさ〉が芸術作品を成り立たせる条件であるという論には納得できました。

「前衛芸術は調和を目的としていないではないか?」という反論がありそうですが、私自身は、「より調和が難しいものを調和させようとする創造活動である」と理解しています。セザンヌの絵画においては、不均衡の中に均衡を感じる事ができます。また、カンディンスキーの絵画においても、様々な造形や色彩の組み合わせの中に調和を感じる事ができます。

 
左:ワシリー・カンディンスキー『即興、渓谷』、1914年。右:ポール・セザンヌ『リンゴとオレンジのある静物、1895年~1900年。

加えて、それらとは異なり、「何が芸術か?」を問う、哲学的な作品もあると考えています。


カジミール・マレーヴィチ『黒の正方形』、1915年、油彩、キャンバス

例えば、前衛画家として有名なマレーヴィチの作品。一部に調和を感じる作品もありますが、有名な『黒の正方形』については、私個人としては、芸術作品というよりは前記のようなものだと感じます。その他、音楽ではピアニストがピアノの前に座り、何も弾かずに無音状態が続くジョン・ケージの「4分33秒」や、便器にサインをしただけの、マルセル・デュシャンの「泉」なども、個人的には芸術作品というよりは、「何が芸術か?」を問う哲学的な作品と考え、芸術作品とは区別が必要だと考えています。


ジョン・ケージ:「4分33秒」


マルセル・デュシャン『泉』、1917年。

■反応が出る芸術作品の条件

前項までの分析を簡単にまとめると、次のようになります。

・芸術とは、ある種のもので異種のものを表現する事で、そこには調和がなければならない。

・より困難なものを調和させ、表現するほうが感動が大きい。

・近年の哲学的な芸術作品は目的が違うので分けて考えたほうが良い

さらに、反応を指標に「芸術作品が引き起こす反応の条件」を絞っていきたいのですが、その前に、頻繁に起こる、「抵抗から逸れることで反応が出なくなる」という現象について書いておきたいと思います。
〈反応〉とは人が〈抵抗〉を避けようとすることによって出る症状なので、それを逆利用し〈抵抗〉に直面する時には、常に目的や追求から「逸らそうとする力」が働き続けます。

以下、抵抗から逸れる例と、関連して他に気が付いた事を書いてみます。

*抵抗から逸れて、反応が出なくなってしまう要素

まず言えるのは、

・装飾に焦点があたってしまうと反応が出にくい

という事です。装飾がほとんどない古代遺跡などは、反応が出やすい作品か、出にくい作品かがはっきりわかります
が、装飾が多い作品では、一つの作品の中でも目移りしてしまい、反応が出にくくなります。

また、

・作品のストーリーに焦点があたると反応が出にくい

という事も言えると思います。東洋の仏像や、西洋の宗教画などは、作品そのものの鑑賞よりも、心情的な事を考えやすいと言えると思います。また、セザンヌやカンディンスキーの絵で心情的な事に注意が逸れてしまう事はあまりないでしょうが、ゴッホなどの絵に関しては作者の劇的な人生のストーリーに関心が向いてしまう人も多いと思います。さらに、解釈を排除しているはずの龍安寺の石庭でも、観光客を観察してみると石の数を数えている人が多いのがわかります。「どこから見ても必ず一つの石が隠れる」という説があるため、その説を確認するためにあちらこちらに移動している人も多くみられます。(注6)

このように、芸術鑑賞と言っても、作品の背景や作者に意識が逸れることが非常に多いので、作品をありのままに鑑賞するという事は、意外と難しいのです。

*作品の欠損や、改変について

龍安寺の石庭、源氏物語絵巻、バッハのフーガの技法などは、制作された後に、何者かによって改変されたという説があります。源氏物語絵巻などは、明らかに画家ではなく、素人が塗り絵のように塗りつぶしたような跡もありま
す。加えて、塗料が剥げ落ちてしまっている箇所があるなど、作品自体の劣化も認められますが、にも関わらず上記の作品に関しては、反応は出ます。

主要部分が改変され、別の作品のようになってしまえば、反応の出方は変わると思いますが、細部の改変に関しては、反応に関して大きな違いはないようです。古代遺跡なども、崩壊してしまった部分と残っている部分が混在している状態が多いのですが、これらも反応は正確に出るようです。

録音状態が悪い音楽を考えてみればわかりますが、細部がはっきりと聞こえなくても歴史的な録音として残っているものがあります。これらの例から、人間は視覚や聴覚から入り意識の上で理解している情報以上に、無意識化でかなり正確に対象を捉えているという事が推察できます。

*児童や発達障害でも反応は出る

現在までに、小学生の児童数名に龍安寺の石庭の写真の反応が出やすい部分を集中して見てもらい、反応を確かめましたが、やはり強い反応が出ます。いずれも、自閉症スペクトラムや発達障害で来院している子供たちですが、年齢や発達に関係なく反応が出るという事は非常に興味深い事です。これも、無意識化では成人と同じように作品を把握していると推察できる点で非常に重要だと考えています。

*分業で制作された作品について

例えば、抵抗が強いルネサンス期の絵画などは工房で分業という形で制作されていたものもあります。中国陶磁器も、陶磁器を制作している地域があり、工程は分業です。その他、建築や庭園も、完全に個人の作品と言えるものは少ないのではないでしょうか?建築に関しては、赤の広場などの建築群での反応により、「別々の作品の集合体でも反応が出る」という事もわかりました。時代が数百年離れており、様式が違う建築でも、反応が出るのは不思議な事です。

以上、作品そのものの反応を研究し、分析した結果について記述しました。これらは主に笠原先生の経験を聞きながら自分自身の反応を追いかける過程で、気が付いた事をまとめていったものです。

その後、笠原先生の研究とは別に、「異種のものを調和させる要素」としての比率や光に注目する→強い反応が出る作品は、比率や光そのものを表現している事に注目する→様々なものを調和させたり、表現する〈多機能性〉という発想を得る…といった流れで自分自身の考えを発展させています。

次回、その詳細を書きたいと思います。

=注釈=

注1:進歩と進化(主にダーウィンの進化論)が混同される事が多いので、進歩という言葉を使います。進歩についてダーウィンの進化論を持ち出す文章を様々なところで見ます。学術分野ではなく、ビジネスやスポーツなどについて書かれた文章でも見る事がありますが、ダーウィンの主張は、神によって様々な種の生命が造られたという、〈進化論〉以前の〈創造論〉に対して、生物が進化して新たな種になる、というものです。創造論では猿と人間は神が別々に造ったことになり、ダーウィンの進化論では人間は猿から進化したことになります。

注2:最近になり、『国富論』で書かれている金貨、銀貨などの歴史や考察の部分も非常に強い反応が出ていた事に気が付きました。当時は金貨、銀貨などは現代には関係ないと思っていたので、その部分は熟読していませんでした。蛇足ですが、仮想通貨などの話題で賑わっている昨今ですが、個人的には数年前に読んだ仮想通貨の本では反応が出ず、金価格などの相場のデータは、反応が出る事がわかりました。

注3:私が大学四年生の時の1998年度は、前年に山一証券が倒産したこともあり、文系の就職が難しい年でした。自分自身の体調も悪く、東洋医学の勉強をしながら、大学院にでも進もうかと考えていました。そのような流れで、就職活動をせずに、大学院受験の勉強をしたため、ケインズ経済学、また、〈イノベーション〉という言葉が流行っていた時代でもあるので、経済学者のシュンペーターの著書を勉強をしました。結果的には、自分が一生続けていきたいと思える施術の仕事に出会ったので、今から考えれば、経済学の古典中の古典である、アダム・スミスの『国富論』を読まなかった事や、簿記の試験を寝坊で受け損ねた事もあったので、経済学の中のある部分に抵抗があったという事なのでしょうが、その時は〈幸福否定〉も知らないので、自分自身で気が付く事はありませんでした。

注4:原題は『OF THE NATURE OF THAT IMITATION WHICH TAKES PLACE IN WHAT ARE CALLED THE IMITATIVE ART』です。〈模倣芸術〉という用語は、プラトンが使っていたようで、プラトンは「芸術はイデアの模倣にすぎない」と肯定的な意味ではなかったようです。『アダム・スミス 哲学論文集』に収録されている、『哲学的研究を導き指導する諸原理ー古代物理学の歴史によって例証される』や、『哲学的研究を導き指導する諸原理ー古代物理学と古代形而上学の歴史によって例証される』において、プラトンもイデアという概念も出てくるのですが、『模倣芸術論』で使われている〈模倣芸術〉に関しては、イデアの概念はないようです。『アダム・スミス 哲学論文集/水田洋 ほか訳』と、『アダム・スミス 芸術論/馬淵 貞治 訳』がありますが、引用文は訳文の関係で、『アダム・スミス 哲学論文集』を使っています。

注5:アダム・スミスの原文の「模倣したものと模倣の対象とのあいだの不一致」という表現は、芸術作品の素材のみに限定すると、木材を材料に使った彫刻で、「鉄製の鍋を表現するより花を表現したほうが、近い種類なのに感動するではないか?」との反論が来そうですが、絵画や刺しゅうにおける、平面で立体を表現する技術や、遠近法、光の投影などに関しても言及しているので、様々な例を含んでいます。そのため、私自身の説明としては、わかりやすく「より困難なものを表現する」としています。

注6:石庭の「どこから見ても必ず一つの石が隠れるという説」を調べてみましたが、全部の石が見える場所があること、また、この説は龍安寺の公式パンフレットでは全く触れられていないようです。
「西陣に住んでいます」というブログを参考にしたので、関心のある方はご覧下さい。

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