幸福否定の研究 19・20

■ 幸福否定の研究 19
前回は、私が6年前から、笠原氏の心理療法を追試し、下記項目の内容を肯定する結果を得たことを書きました。
①心因性症状は、直前の出来事が原因になっているか?

②原因の記憶が消えているか?

③原因となっていることは、幸福に関係することか?

④感情の演技で根本的な人格の変化が起こるか?

⑤抵抗に直面することで、心因性疾患の根本的な改善が起こるか?

今回は、心理療法を続けていく上で発生し、この連載でも何度か言及した”好転の否定”という問題について書きたいと思います。まず、いつものように笠原氏の著作から引用します。
・ 好転の否定という現象

それ(筆者注:幸福否定の理論的統一に近づいた、という引用前段落の内容)と相前後して、もうひとつ奇妙な現象に気づくようになった。入院していたアトピー性皮膚炎患者の中に、症状がかなり好転しているにもかかわらず、「少しもよくなっていない」と主張する人たちが何人か出てきたのである。

周知のように、この皮膚病は、腕や顔などの露出部に出やすいので、悪化も好転も目につきやすい。そのため、この皮膚病を持つ人たちは他者からその評価を聞かされる機会がどうしても多くなる。悪化をしたことを人から素直に指摘された時には、がっかりして落ち込むはずだと一般には考えられるであろう。

ところが、心因性疾患の場合、実際には、ほとんどの人たちが、それを事実として冷静に受け止める。それに対して、好転したことを指摘されると、圧倒的多数が、それを素直に喜ぶどころか、好転そのものを否定する。認めるとしても、ごくわずかでしかない。それどころか泣きながら抗議したり、怒り出したり、ひどい場合には相手を脅したりすることもある。

これがひとつのヒントになって、他の疾患の人たちにも同じ現象が見られるかどうかを、時間をかけて確認することにした。その結果、わずかな好転であれば、それを喜ぶこともあるが、大幅に好転すると、事実上、全員がそれを否定することが、徐々にわかってきたのである。

(笠原敏雄 『幸福否定の構造』 p98)

この後、具体的な”好転の否定”の例が挙げられ(注1)、その後、症状の特徴についても詳述されます。
…好転の否定は、ふつうにはほとんど見られない現象なので、わかりにくいかもしれない。それは、おおよそ次のような特徴を持っている。

・否定の結果として起こる症状や、行動は、それまでにないほど強いこともある。そしてそれは、好転の大きさとほぼ正比例する。 初期には好転も小さいので、否定もそれなりに小さいが、心理療法が進展するにつれて、双方とも大きくなる。分裂病の場合には、大きな好転が起こると、その否定の強さも尋常ではない。それまでよりも異常性が(場合によっては、見知らぬ他人に危害を加えるまでのことはないにせよ、反社会性も)かなり強くなる。小坂の言う”イヤラシイ再発”の少なくとも一部には、その要素が混じっているのであろう。

・小さな好転を除くと、本人は悪化したとしか思わず、悪化と称する部分だけを強調する。しかし、第三者には悪くなったように見える部分と、今までになく好転している部分とが混在して見えることが多い。そして、大きく好転している部分を本人に指摘しても、それを認めることはまずない。

・自分(の内心)が気がすむまでけちをつける、という目的で作っているにすぎないので、いかに強固に見える症状であれ、放置しておいても、遠からず消える。そして、その後に好転だけが浮かび上がるのである。分裂病は、再発、悪化すると、急性症状が治まっても、何らかの欠陥が必然的に残るものであるが、好転の否定の場合には、そうではない。急性症状と見えるものが消えると、欠陥が加わるどころか、その”再発”前の状態よりもかなり好転していることが、誰の目にもはっきりとするのである。

・私の心理療法では、好転の否定が最重要の概念のひとつに位置づけられている。そして、好転の否定が起こるたびに、それを乗り越えることが、治療の要になっているのである。本人にとって、これを乗り越えることが重要なのは、ひとつには、せっかく大幅に好転しているのに、それを否定したまま、その時点で心理療法を中断し、そこで進歩を止めてしまうことになるからである。その場合、症状が悪化したので、これ以上続けても無意味だと、意識の上で冷静に考えてやめてしまうことはほとんどない。それよりも、心理療法の約束を完全に忘れてしまい、そのままやめてしまう例のほうがはるかに多い。(『幸福否定の構造』 p101~102)

簡単に要約すると、「心理療法を続けて改善がはじまると、今度はそれに対しての”幸福否定”が出て、患者さんが心理療法を中断してしまう」という内容です。

私も追試で経験していますが、”好転の否定”が出現する場合、いわゆる改善が起きると同時に否定が出て、一時的に症状が強くなるケースでは、患者さんはむしろ積極的に心理療法に来ることになるので、あまり問題になりません。

大きな問題になるのは、患者さんが当日になると予約を忘れてキャンセルを繰り返したり、改善したという自覚そのものが無くなってしまうという現象が起きる場合です。それまで真面目に通っていた患者さんが急に大幅な遅刻やキャンセルを繰り返しだしたり、完全に予約を忘れてしまうという現象は、体験しないと実感しづらいですが非常に奇異な感じがします。

「そういうケースでは、心理療法で改善しない、あるいは何かしらの形で負担になっているから中断したのではないか?」と反論されそうですが、ならばキャンセルを繰り返す必要はありません。次の予約をしなければ良いだけです。

私のところに来ている患者さんの場合、このような現象はある程度目的を達成した後に起こる事が多く、心理療法の効果を実感する最初の好転でやめてしまったという割合は少ないと認識しています。

例えば、次のような例です。

・働けないという状態を克服し、アルバイトができるようになったが、その後、自分のやりたいことに取り組むというテーマに入ったら、途端に来院できなくなってしまった。

・うつ病の症状を克服するという目的で来院していた時は、一時的に症状が強くなっても来院していたが、ある程度症状が改善し、親からの自立というテーマに入った途端に来院できなくなってしまった。

両方とも、心理療法の効果を認め、直前に「頑張って克服したい」という趣旨のことを言っているので、心理療法に不満があって中断したとは考えにくいのです。

個人的には、症状が一時的に強くなったり軽くなったりする時期が混在し、患者本人は悪化したほうにしか意識がいかないため、「悪くなったと思い込む“好転の否定”」=aと、「予約を忘れたまま心理療法を中断してしまう“好転の否定”」=bは、分ける必要があると考えています。

前者の”否定”=aは、どこで症状が強くなったのかを調べることによって心理療法が進展しますが、後者の”否定”=bはそこで進歩をとめてしまうところが大きく違います。単に好転にけちをつけるのが目的であれば、一定期間来院しない時期があってもまた再開することもあるはずですが、私に関して言えば、キャンセルを繰り返したり、予約を忘れることを繰り返して来院できなくなってしまった患者さん(=b)が、「“好転の否定”の期間が終わったから」と、普通に来院できるようになったケースはありません。
印象としては、前者において、「無意識が、新たに乗り越える課題を、症状を通して示している」という状態であり、後者において、「患者さんがどうにも乗り超えられない抵抗に当たって、心理療法をやりたいけどやれない」という並行状態が続いている感じがします。

後者側の”好転の否定”=bがなければ、心理療法が軌道に乗った場合、際限なく進歩できてしまうということですが、ある意味、個々に限界がある、という事は当たり前のことなのかもしれません。仮に、「どうしても乗り越えられない抵抗」というものが存在しなければ、小坂医師、笠原氏の心理療法が簡単に世の中に広まり、既に精神疾患は”解決済み”となっている可能性が高いと言えます。

話をもとに戻しますが、前者=a側、つまり「一時的に症状が強くなる(ように見える)”好転の否定”」は心理療法を進める上で問題にならないと私自身は判断していますし、後者=b側の「心理療法をやめてしまう好転の否定」も、問題ではあるけれど、全員が際限なく進歩できるということも考えにくいので、仕方がない部分があると考えています。
長期に渡って進歩を続ける患者さんが1割前後いることと、仮に途中で治療を中断したとしても、そこまでに改善した部分は後戻りをせず病気や症状の改善など、当初の目的は達成していることも多いので、そのような”好転の否定”が心理療法自体を否定することにもならないと考えています。
追試をはじめる前は、「効果が出るまでに3ヶ月から半年はかかってしまう治療法など続くわけがない」「好転しても否定が出て、一定期間症状が強くなるなら、そこでやめてしまうだろう」と考えていました。しかし、現在感じている事は以下の様なものです。

・常識とは正反対の考え方にも関わらず、思ったより取り組む人が多い。

・より強い抵抗に直面し続けるという修行のような内容にもかわらず、思ったより投げ出さずに続ける人が多い。

”好転の否定”で続けられなくなる患者さんがいる、ということよりも、最初の”好転の否定”を乗り越え、ある程度続く患者さんが2割以上、数年単位で続ける患者さんが1割近くいるということの方が、私にとっては良い意味での驚きでした。
■ 心理療法の患者ではなく、身体の施術の患者の好転の否定
私は主に東洋医学の経絡理論とオステオパシーの理論を基盤にした施術を行っており、必要と思った患者さんには心理療法を勧めているのですが、昨年のある時期から、身体の施術で来院している患者さんに、心理療法である”好転の否定”に近い症状が出るようになりました。(注2)
私自身が興味を持って心の研究室に行き、自分で感情の演技をはじめてから8年目になりますが、身体の施術で明確に”好転の否定”のような現象が出たのは、はじめての経験です。身体への施術方は変えていないので、技術以外の何かが作用したのか?あるいは私のところへ施術を受けにくることが抵抗に直面する事になってしまうのか?そんな不思議な事があるのか?などと疑問だらけですが、この現象を経験したことで、心理療法での好転においても、療法手続き外の部分が関係している可能性を考えなければならないと思い始めています。
具体的に挙げれば、症状の直前の出来事を探る、感情の演技で抵抗に直面する、ということの外に、治療家の生き方、姿勢、治療家自身が抵抗に直面しているか否か等の違いが、無意識化で影響を与えているのではないか?

この現象に関しては、笠原氏の以下の発言が参考になります。

例外的な事例を別にすれば、私の心理療法のように幸福否定に基づく抵抗を減らそうとする試みによってしか起こらないので、好転の否定という現象が一般に観察されることは、まずありません。(一般には、一流のスポーツ選手や芸術家などに見られる<スランプ>が、それに近いように思います)。(『本心と抵抗―自発性の精神病理』 p116)
私事ですが、ここ数年、芸術作品を鑑賞したときに表れる”反応“について、自分自身もさまざまな芸術作品にふれながら、実験的な研究に取り組んでいます。それが関係しているかどうかについての結論は、まだ材料不足で出せない段階ですが、「心理療法を行っていなくても、身体の施術で、好転の否定という現象が出たこと(身体の施術のやり方は特に変えていない)」は非常に興味深い現象です。
これらに関しては、かなり時間をかけないと因果関係の解明は難しいと思いますが、”好転の否定”や”幸福否定”の根幹に関わる重要な部分ですから、ゆっくり、確実に研究を進めていきたと思います。
次回は、上でも触れた、治療者と患者の無意識化の相互影響について考察します。非常に難しいテーマなので、結論のようなものは求めず、どのような現象が起こるか、という紹介が中心になるでしょう。
注1:顔の湿疹がかなり好転した時、状態が悪い時のスケッチが書かれている自分のカルテを(恐らくスケッチによって好転がはっきりすることを否定するため)そのまま持ち帰って処分してしまった女性の例、また、心理療法に遅刻を繰り返すようになった例、予約の日に丸一日眠り込んで心理療法に行けなかった例、などが書かれています。
注2:身体の施術ですが、心理療法の希望がない、そううつ病や自律神経失調症など、心因性疾患の患者さんも含みます。心臓弁膜症、アスペルガー、リウマチ、自律神経失調症など多種多様な症状の患者さんが、好転の否定を起こしています。
■ 幸福否定の研究 20
前回は、「好転の否定」という重要な問題について考察しましたが、今回は心理療法を進めていく上で観察される「無意識の現象」というものについて解説します。(注1)大きなポイントとしては、以下の二点が存在します。順にみていきましょう。
①治療者の理解が深まってくると、直前の出来事を探っても症状が消えにくくなる。

②治療者が「抵抗」に直面しているかどうかが、治療効果に関係してくる。

①治療者の理解が深まってくると、直前の出来事を探っても症状が消えにくくなる。
普通に考えれば、治療者が心理療法をはじめたばかりの頃より、経験を積んだ時期の方がより上手く症状を軽減、消失させられるはずです。しかし、現実は違います。「症状が発症した直前の、記憶が消えている出来事を探す」という同じ方法を使っているにも関わらず、治療者の熟練によって、数年前はきれいに消失していた症状が消えにくくなってしまうのです。この場合、以下の二点のような問題が考えられます。

ア 患者側の不明瞭化(注2)の問題
イ 治療者側の進歩の問題
アの、「患者側の不明瞭化」の問題は、心理療法が進むにつれて本質的な部分、抵抗が強い部分の治療になっていくので、理論としては理解できます。

イの現象は、表面的に行っている治療は変わらないのに、「治療者の理解が進むにつれて効果が変わってくる」ということです。この点に関しては、治療者、患者とも、無意識で相手のレベルを的確に把握している、という前提がないと成り立ちません。この部分は科学的な証明がとても難しいので、「小坂医師、笠原氏、私と同じような現象が起こった」という「経験」として書きたいと思います。

小坂医師は、「症状を患者本人の責任」とみなすようになってから、症状が簡単に消えなくなりました。笠原氏は、「幸福否定」という考えかたに辿り着いてから、同じように症状が消え辛くなったそうです。
そして私自身の話ですが、昨年の1月から、「直前の出来事を探って症状を軽減させる」ことが少し難しくなりました。(私の)どの部分の理解の深まりが関係しているのかはもう少し様子をみないとわからないのですが、いずれにせよ、病気に対する理解や人間理解が深まるにつれて、症状を軽減・消失させるのが難しくなってくる、という事態に直面しています。
この現象に対して笠原氏は、心理療法初期の頃に症状が簡単に消えるのは、追及を避けるために自ら退避させた、という主旨の説を唱えています。
症状を自分から退避させた、とする解釈が成立する根拠はふたつある。ひとつは、分裂病以外の心因性疾患の場合、私の心理療法の進化に伴って同じように心理的原因が意識に昇っても、症状が消失する比率および度合いが、ともに段階的に低くなってきたことである。

小坂療法の場合と同じく、私の心理療法の初期にも、自らが進んで”告白”することで治療を進め、症状をあっさり消し去った事例が存在したことを考えると、その意味がよくわかるであろう。

幸福否定という考え方になってからは、そこで症状を消しただけではごまかしきれず、”侵攻”が食い止められないことがわかったため、その陣地を死守する覚悟を決めた、という事なのではなかろうか。ここでは、無意識的な駆け引きが行われていることが、はっきりと見て取れる。

この推定が正しければ、症状出現の仕組みを治療者が知らないほうが、また、少々的はずれの治療を受けた時のほうが、(症状を消す準備が整っている場合に限るが)患者としては症状を消しやすいことになる。そして、その種の”好転”のほうが、患者と家族も素直に喜びやすく、好転の否定もほとんど起こらずにすむのである。(『幸福否定の構造』 p241)

上記のような展開になってしまうと、小坂医師の方法論を発展させた笠原氏の心理療法そのものが行き詰るのではないのか?という危惧が出てきますが、結果は異なったものでした。
初期には、症状が消失すると、患者は心理療法をそれ以上続けることを拒絶する傾向がきわめて強かった。その結果、ほとんどの患者の場合、心理療法は短期間で終わってしまっていたのである。ところが、私の心理療法が進化するに従って、意識では不満を表明しながらも、自発的に心理療法を継続する患者が増え、現在では、(渡辺注:1995年時)十年を超える患者が数名いる。(第4章 註18)”
心理的原因がさらに明確になった段階では、患者がほとんどいなくなってしまうことを懸念していたが、実際には逆で、抵抗が強くなった反面、私の心理療法を継続する患者はかえって増加している。
つまり、ほとんどの患者は私の心理療法の基本概念に対して意識では理解が浅いのみならず、私に対して正面から疑問や批判を向けることも少なくないし、症状や状態の好転を私の心理療法と結び付けるのを極度に嫌う反面、行動的には私の心理療法に対する執着が強くなってきたのである。(『隠された心の力』 p227 第4章 註19)
つまり、目先の症状が消えるか消えないかを重視する患者が減り、劇的な変化が起こらずとも、本質的な改善を求める患者が増えるため、心理療法自体が成り立っているということです。

患者の行動だけ観察すると、単に症状を軽減する事よりも、「多少症状が続こうとも人格的な成長を望む割合が増えてくる」というはっきりとした傾向がみてとれるのですが、患者自身が症状の軽減より人格の成長を目指しているという自覚はなく、あくまでも会話は症状の軽減が中心になります。そうした矛盾は、患者側の無意識が、治療者の理解度や治療姿勢を把握しているのではないか?とも思わされます。

②治療者が抵抗に直面しているかどうかが、治療効果に関係してくる。

私自身、2006年1月から8年弱にわたって継続して「感情の演技」を行っています。当然ですが「好転の否定」があり、それぞれ期間は違いますが、短くて数日から一週間、長いと一ヶ月、二ヶ月近く体調がすぐれない時があります。主に、「なんとなくだるい」「日中の眠気が強い」などの症状が出るのですが、ここでも対比が起こり、仕事に入ると気が逸れるので症状はなくなり、空き時間や休日に症状が集中します。私が強い抵抗に直面して、「好転の否定」の症状が出ている時には、心理療法を受けている患者さんの「好転の否定」も強くなる傾向があります。
もちろん、好転も大きいということなので、その後、一時期できなくなっていた自宅での感情の演技ができるようになったり、心理療法により積極的になったりと、良い意味での変化があるのですが、それまで順調に進んでいた患者が離れていく例もあります。
この点についても、「治療者の無意識の変化を患者が把握している」という推測はできるのですが、科学的証明ができることではないので、このような現象が起こる、という記述のみで留めておきたいと思います。
今後、笠原氏の症状の考察を踏まえて、「症状とは何か?」という根本的なことを私なりに考えてみたいと思っているのですが、まずその補完的なトピックとして、次回は「無意識の認識能力」という観点から分子生物学での研究を簡単に紹介したいと思います。
注1:「無意識」という言葉の細かい定義はそれぞれ違ってきますが、おおよそ心のなかの「意識でない領域」という意味で使われます。そうすると、「意識」の定義が必要になってきますが、私個人の見解では、「考えていること」「感じていること」「記憶していること」などが意識の要素という事になります。
注2:不明瞭化について

心理療法を行うにあたって、反応を指標にして原因を探るさい、感情の演技を対比させて行い、反応の強いほうを追いかけていくという手法を用います。


・症状と人格面の進歩が関係している
・症状と能力面の進歩が関係している

というように、初期の段階では、反応の差が正確に出ることが多いのですが、ある程度抵抗の強い部分を探りだすと、(本人の意識も含めて)、無意識にだまされるような形で、反応が逆に出たり、やるたびに違った結果が出るようになります。あるいは、発症の直前の出来事を探っていると、90分間の心理療法の終盤に”そういえば、その前の日から症状がありました”など、はじめからやり直さなければならないような状況になってしまう事もあります。

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