幸福否定の研究 23・24 人間らしい生き方とは?

■ 幸福否定の研究 23 人間らしい生き方とは?
前回の更新で、暫定的な見解として、”症状”という視点からみた人間は環境に左右される受動的な生物ではなく、”主体性”を持っているのではないか、と書きました。
“主体性”という概念は、心理療法を通じて私が確認した”人間の本質”へ非常に大きく関わってくるので、今回は補完的にさらにいくつかの例を挙げてみたいと思います。まず、 ポール・ティベッツ(広島に原爆を投下しらB29戦略爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長)の例を見てみましょう。
ティベッツにも、医学進学課程に籍を置いて、外科医を志していた時代がありました。人を救いたい気持ちが多少なりともあったということなのでしょう。しかし、現役の医師たちと間近に接する機会があったため、医師という職種は「命を縮める仕事」だという印象を抱くようになり、急遽、進路を変更して空軍パイロットになったのだそうです。
しかしながら、太平洋戦争の初期には、自分が投下した爆弾によって被害を受ける民間人に対して、「かわいそうだ」と思う気持ちを、まだ抱いていたのです。
そのような同情心がある限り任務を全うできないと考えたティベッツは、そうした自分の“弱さ”を克服しようとして、プロ意識に徹し、「戦時には感情に流されるべきではない」と考えるようになるのです。命令を発する側からすれば、重要な作戦を任せられる、まさに頼もしい軍人へと、自らの意志により大変身を遂げたわけです。(中略、文脈上、筆者改変)また、ティベッツは現役当時だけでなく、退役後も一貫して同じ姿勢を示し続けていました。自分が命令に忠実に従うことで、大量の非戦闘員をいかに残虐に殺戮する結果になろうとも、それにまつわる判断や感情は、このようにして完全に棚上げされるのです。そこには、過去の行動の正当化や権威への忠誠心があり、さらにその裏には、徹底的な〈主体性の否定〉や〈反省の回避〉が見え隠れしています。
ここまで自分を殺して(還元すれば、自己欺瞞を貫徹して)任務に徹することができれば、不安定が入り込む余地はないのかもしれません。逆に言えば、残虐行為に加担したりそれを目撃したりすることによって“PTSD“を起こすような人たちは、(中略)自分の感情を麻痺させるのに失敗したということなのでしょう。

(引用:『加害者と被害者のトラウマ』p132~133/笠原敏雄)

上記ティベッツのように、誰しもが自分で自分の生き方を決めているという事は、戦時のようにわかりやすい例を出すまでもなく、日ごろ周囲の観察をしていれば比較的容易に分かることかと思います。

そして、観察を続けていると、“優秀な部下”、“良くできた妻”、“優等生”など、周囲から評価される人達の生き方は、周囲に自分を合わせる事を厭わない、つまり非常に自己犠牲的なのだということも分かってきます。

さらに、これは主に心理療法の追試と幸福否定の事例を勉強をして確認した事ですが、自らの判断で決断、行動し、結果に責任を持つという生き方よりも、「命を落とすような危険な目に遭ったり、耐えがたい苦痛に遭うことが分かっていても、権力や権威に判断を委ねる生き方」のほうが、多くの人にとっては容易なのです。

ここで、以下、そうした一見考えられないような生き方、つまり「例え命を落とすような危険な目に遭ったり、耐えがたい苦痛に遭うことがわかっていても権力や権威に判断を委ねる」ことについて、少し解説したいと思います。3例ほど挙げてみます。
例1:

第二次世界大戦中の末期には、多くの日本兵が負けるとわかっている戦い(言い換えると、彼らの大義名分であった“国のため”にはならない戦い)のために、進んで命を捧げた。他の選択肢(徴兵拒否や、逃亡など)について考える事をあえて避ける傾向があった。

例2:

私見ですが、”権威に弱い”という性格的特徴を持つ人がなりやすい病気として、ガンがあげられると思っています。近年少し状況が変わってきたが、手術、放射線治療、抗がん剤治療などの、それ自体が余命に関わるような非常に副作用の強い治療を病名を伏せながら行っていた。病名を伏せるという事は、本人に治療方法の了解をとっていないという事である。患者の側も、自分が望んでいるからではなく、家族が勧めるから、医師が頑張ってくれているから、という理由で効果とリスクを考えずに治療を受け続ける。

※ 私の施術を受けに来た、抗がん剤治療を受けている患者に、“抗がん剤治療でどこまで期待できるのか?”という主旨の事を聞いてみると、ほとんどの患者が、“この辛い治療を乗り越えて5年再発しなければ治る”という主旨の発言をします。“なるべく自分が受けている治療を把握しておくように“と、以下のページを読んでおくことを勧めますが、自主的に読んだ患者はほとんどいません。そして、5年生きられるのは10~20%程になります。抗がん剤をやらずに放置した例でも、5年生存率がたいして変わらないという主張もあります(以下参照)。
『抗がん剤で完治する可能性のある疾患は、急性白血病、悪性リンパ腫、精巣(睾丸)腫瘍、絨毛(じゅうもう)がん等です。わが国におけるこれらのがんによる死亡者数は、1年間に15,000~16,000人です。胃がんや肺がんの年間死亡者数は、それぞれ70,000人と50,000人ですから、それらに比べると比較的まれな疾患ということができます。また、病気の進行を遅らせることができるがんとしては、乳がん、卵巣がん、骨髄腫(こつずいしゅ)、小細胞肺がん、慢性骨髄性白血病、低悪性度リンパ腫等があります。投与したうちの何%かで効果があり症状が和らぐというのが、前立腺がん、甲状腺がん、骨肉腫、頭頸部がん、子宮がん、肺がん、大腸がん、胃がん、胆道がん等です。効果がほとんど期待できず、がんが小さくなりもしないというがんに、脳腫瘍、黒色腫、腎がん、膵がん、肝がん等があります。引用:国立がん研究センター がん情報サービス 8.化学療法で治癒可能ながん』
例3:

サラリーマンによる、“会社のために仕事をしている”という考え方。例えば、同じ給料を貰っている立場でも、自分のやりがいを考え、会社を選択している場合は、自分の目的のための手段として自分の責任で職場を選んでいるため、当てはまらない。終身雇用が崩れつつある現在では特に、自分の責任で行動する事を避ける理由として会社が機能するケースが増える。

注目すべき点は、例1、例2で挙げたような、これ以上ない(死を伴う)肉体的、精神的苦痛を伴う事がわかっていても、主体性を否定して従属してしまう例が多数ある事です。これらの例は、苦痛を天秤にかけて、より苦痛が少ない方を選択をしたという、昨今主流の快楽原則では説明できません。
“事実を直視する”、“事実に基づいて自分自身の行動を決断する”という強い抵抗に直面し、乗り越える事ができなかったと考えるほうが辻褄が合います。
戦争や軍隊は現在の日本においては特殊な環境ですが、権威、権力への服従という問題においては、日常生活でも本質は変わりません。本来、自分自身の責任で行うべき意思決定や行動を、親や会社に完全に委ねている状況では精神症状は出にくいように思われます。むしろ、親や会社が絶対的に正しいわけではない、という疑問が(自分自身に対して)隠し通せなくなったとき、また、何か問題が起こった時に、親や会社のせいなどではなく、自分で責任をとる、という考えが出てきた時に、精神症状が出やすいように思われます。
昨今の社会的状況の変化により、家族、会社、社会は絶対的に信用できるものだとは認識されなくなりました。(注1)その結果、”抵抗”に直面しやすくなっているので、昔ながらの本物の精神病ではなく、普通の人が罹る、うつ症状などの精神症状が増えているのではないでしょうか。
上記の例で示したように、人間は肉体的に死を伴うような苦痛を受けることをわかっていても権威を疑わないことが多く、それほど従属心が強いのにも関わらず昨今は権威の崩壊が進んでいるわけですから、現代社会は急に難易度があがった高度な社会と言えるのかもしれません。近代的な人間が求める、“自由と自立”は、そのすぐ傍に喜びがあるにもかかわらず、生みの苦しみがなければ到達できないという事になります。
「人類が生活に追われるだけの一生を送っていた、つい最近までのいわば動物的な時代には、平穏無事な生活こそが理想の生きかたとされていました。しかしながらそれは、現代の先進諸国に住む人間が心底から望む生きかたとは言えないのではないでしょうか。いわば雌伏的な生きかたからようやく解放され、より高度な幸福を求める余裕が生まれつつある現代では、生活を犠牲にしてまでも、冒険的な生きかたや“自己実現”のほうを優先しようとする人たちが、おそらく以前よりもはるかに多くなっているからです。そのような側面から考えても、心因性疾患を起こすということは、決して悪いことではないことになります。動物的なもの(精神分析で言う快楽)にあらざる人間の幸福(人間的な喜び)を追求している現われでもあるからです。これは、決して慰めで言っているわけではなく、本当にそうなのではないかと私は思っているのです。

(引用:心の研究室 トップページ:http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/

笠原氏は上記のように書いています。
基本的には私も同意見ですが、抵抗に直面し続けるという事は非常に苦しい事でもあります。また、抵抗に直面し心因性症状が出ても、乗り越えるのではなく、うまく逃げ道を見つけてしまう人のほうが多いのも現実です。うまく乗り越えられなければ、長い間苦しい思いをし、失業なども伴うことが多いので、社会性は失われてしまいます。一般的な見方からすれば“不幸”に陥る事になるからです。
しかし、良し悪しの前に、そもそも時代的に避けられない事なのですから、私は、この”抵抗”に直面した上での心因性症状の増加、苦しいけれども喜びも伴うという状況をなんとかして乗り越えるのが現代人の課題という見方をしています。
また、上記の、”より高度な幸福を求める余裕が生まれつつある現代では、生活を犠牲にしてまでも、冒険的な生きかたや“自己実現”のほうを優先しようとする人たちが、おそらく以前よりもはるかに多くなっている”という部分についてですが、私の周辺の話を聞いていても、生活の安定も大事だが、やりがいや生きがいが大事、という意見が増えてきているような気がしますし、実際、会社に残れば収入は得られるのに、やりがいがないと辞めてしまったり、結婚願望がありながら、一生を共にしたいと思える人がいないからと、結婚ができなかったりという話をよく聞きます。
私(30代)の親の世代(60代以上の団塊の世代)から見ると、贅沢な悩みに聞こえるでしょう。
裏を返せば、つい数十年前までは、仕事に関しては安定した収入を得られるなら“ある程度の理不尽な事”、“やりがいがない”などは我慢をする。結婚に関しては、半数程が、愛情は二の次(それゆえに、親が決めた家同士の結婚や、お見合い結婚が多かった)で、安定した生活を送るために結婚する、ということが当たり前だったようです。
仕事にやりがいを求める事や、好きな相手と結婚したいという願望がただの我儘であれば、心理療法を通じて、社会の制度に沿う方向へ改善してくるはずですが、実際には、むしろ抵抗が弱くなればなるほど、このような自己実現の欲求は高くなるようです。

この心理療法の結果から推測すると、先進国全体の価値観が変わってきた事も、人類全体の進歩の結果として起こる必然的変化と捉えるほうが理に適っているように思います。つまり、抵抗が弱くなった結果、さらに自己実現の欲求が高くなったとなれば、人類の進歩と重なりますから、後戻りすることはないでしょう。

従って、“安心”が最優先の世代と、“生きがい”が優先の世代が相容れなくなるのは、必然的な結果という事になります。
私の施す心理療法の内容も、病気や何らかの幸福否定で社会生活に支障をきたしている患者さんから、その症状を取り除く事が目的でしたが、最近は、普通に社会生活を送れている人が“何のために生きているのかわからない”などと言って心理療法を受けに来院するケースが出てきています。

笠原氏の言う、“主体性”が全体として少しずつ意識される時期に入ってきているのかもしれません。

笠原氏は、主著『幸福否定の構造』において、人類の歴史を振り返りながら、“経験的、実証的方法から少々離れ、ある程度自由に考えを進めてみたい。したがって、以下の考察は、おおまかなスケッチ以上のものにはならないことをあらかじめお断りしておく”(同書p251)とした上で、以下のような文を書いています。
人類の歴史を振り返ると、人間は、特に人権という点で、徐々にではあるが着実に進歩してきたことが、はっきりと見て取れる。(中略)支配者の埋葬に際して、犠牲坑というものが作られ、その中に、場合によっては数千人規模の人間が惨殺され、埋められていたという。

全人口の1パーセント程度を占めるにすぎない支配階級は、残る99パーセントの民衆を、徴用にせよ、生け贄にせよ、ごく当然のこととして、文字通り使い捨てにしていたのである。(中略)民衆の側も、多くはそれを当然のこととして、あるいはしかたのないこととして、最初から諦めていたのである。あるいは諦めているという自覚すらなかったかもしれない。

しかし、言うまでもなく現代では、支配者側からであれ民衆側からであれ、これと同じことは起こりえない。(中略)こうした変化は漸進性のものであって後戻りすることはない。それは個々人の本心の一端が徐々に意識に浮かび上がり、本心および内心を包み隠す、いわば隠蔽のための意識が、きわめてわずかずつであるが、本心に由来する目覚めた意識と入れ替わった結果なのではなかろうか。(注2)
この視線で未来を眺めれば、これから数百年のうちに、権威というものの力が大幅に衰えることが、ほぼ確実に予測される。それに伴って、人の雇用形態も根本的に変わるであろう。社会主義体制は、人間の幸福否定の現状を無視して、机上の空論として構築されたため、人間の悪しき側面が際立ってしまったが、来るべき社会の形態、それとは全く異質なものである。(中略)
その結果として、国民の徴用などはできなくなるし、その必要もなくなるはずである。そして、数百年後に現代を振り返れば、現代の賃金労働者は、人生の最も重要な時間を、節度なく雇用者に売り渡していた、一種の(自覚なき)奴隷と考えられるようになるであろう。
かくして、権威と見なされてきた存在が、次第に、名実ともにその力を失い、人間の上下の差が徐々に縮まるのである。それと並行して人間は、自らの向上のために積極的に時間が使えるようになってくる。このようにして「人はパンだけで生きるものではない」という言葉が、次第に重みを増してくるのである。
(引用:『幸福否定の構造』:p268~269)
最初にこの文章を読んだのは2006年の1月でした。

当初は、理論としては正しいのかもしれないが、そう簡単に世の中変わらない、と思っていましたが、その後、現実社会での権力や権威の崩壊が私の予想以上のスピードで進んでいます。

しかし、では崩壊した権力や権威の変わりに一体何を基準にすれば良いのか?というところで、壁にぶつかっているような印象があります。数々の自己啓発本が流行っては消えていく現状も、今までの権威に代わるものを探している証と言えるでしょう。
世代が若くなればなるほど、生活するという面での困難は減っていますが、その半面、自分の生き方、やりたい事は自分自身で決めなければならなくなってきています。以前より人間らしく生きられる代償として、高度な判断の要求される、難しい時代になっていくのかもしれません。
この段階になると、心理療法も、単に病気や悪癖を克服し、正常に社会生活を送れる事を目的とする段階よりも、さらにより高度な内容になり、時間がかかるようになります。

私自身も、最初は患者さんに施す前に自分で試す、という理由で感情の演技をはじめて9年目になります。もともと社会生活に大きな支障をきたす問題を抱えてはいなかったので、いつの間にか、自分のやりたい事、言い換えると本心の欲求を掘り下げる事を目的とするようになってきています。

理論的に理解しているうちは、言っている事はわかるけれど、実際に自分のやりたいことが何なのかはわからない、という状態が続きました。

正直、自分が患者さんの先を行かないと心理療法もできなくなってしまうため、やめるわけにもいかないが、いつまで続ければ良いのか?という気持ちがなかったわけではありません。が、2年程前から、やりたい事への実感が強く出てくるようになったため、実感を伴った判断ができるようになり、現在は精神的な充実感を感じられるようになっています。

次回は、こうした“実感を伴った判断”について、もう少しだけ私の経験を踏まえた上で補足し、連載全体のまとめのような、暫定的な所感を書きたいと思います。

注1
:但し、昔の家族、会社、国家などが本当に信用できたのではなく、“信用できるように見えた”、または“疑うことをしなかった”という表現のほうが現実に近いと思います。

注2
:この後、現在でも起こりうる例外として、他国(及び他民族)への侵略時に起きる、国民の軽視および徴用が挙げられています。
■ 幸福否定の研究 24(最終回) 人間らしい生き方とは?2
またも前回の更新から期間が空いてしまいましたが(二ヶ月強)、今回で、2年に渡って続いたこの連載も最終回となります。書き始めた当初の想定よりもずっと時間と回数がかかってしまいました。

理由のひとつとして、2年前から計5名の末期がんの患者さんを施術し始めたことがあります。その経験から得た知見によって新たに書き加えなければならないことが発生し、併せて全体の構想も変わっていきました。今回は、そういった点なども含めて、長期化した連載全体の内容を簡潔にまとめてみたいと思います。

・幸福否定の理論、心理療法についてのまとめ
この連載をはじめた時期は、私が笠原氏の提唱する心理療法を施術に取り入れ、実際に心因性疾患の患者さんを本格的に診はじめてから約3年が経過していました。取り入れた理由は、「人格障害の患者さんにより適した治療法になるのでは?」というものでした。

それから2年が経過した今から振り返ると約5年前ということですが、5年のあいだで施術に関する認識の大筋は変化していません。むしろ確信は深まっていますが、一部に例外の発見もありましたので、もう一度、笠原氏の心理療法の追試、及び幸福否定の理論の検証結果を書いてみます。

まず、その元になった小坂療法(参照:幸福否定の研究-11)について。

『小坂療法』
心因性疾患の発症理由として、患者の記憶から消えている発症直前の特定の出来事を仮定。患者にそれを認識させると症状が無くなる、或いは軽減することを指摘。
*小坂療法の追試結果*

概ね正しい。但し、心理療法が進むにつれて症状が消えにくくなってくる(軽減が多くなる)。また、治療者が経験を積み、理解が深まるほど簡単には症状が消えなくなってくる。(この点を、小坂医師は“イヤラシイ再発”として記述。笠原氏も症状が消えにくくなることは著書で指摘しているので、それを含めれば、同様の結果を得たと言える。)

次に、私が行った笠原氏の心理療法の追試と、そこから導き出された『幸福否定』の理論についての私見です。
『笠原氏の心理療法』

「反応を目安に、記憶が消えている心因性症状が出現する直前の出来事を探り、指摘し、感情の演技を通じて抵抗に直面する。【結果】=統合失調症近辺(注1)の疾患をはじめ、様々な精神疾患で根本的な改善をしているので、肯定的な結果を得ている。
『「幸福否定」の理論』

筆者(渡辺)は、これまでの追試結果等から、心因性疾患の症状が「本人にとって”うれしいこと”が原因」という笠原理論の骨格は概ね正しいと考えている。

但し、笠原氏の理論に当てはまらない例外的な病気として、『がん』の存在が挙げられます。私が診てきた患者さんには共通する性格的傾向があることから、心がかなり関係していると想定はされるのですが、それでも以下のような疑問点があります。
・症状が出ない…直前の出来事を探る事ができない。がんの進行にも心因性の要素が関係していることが多いと思われるが、症状が出ないためわからない。
・半年以上感情の演技を続けた患者さんが数名いるが、がんの進行の速度が遅くなる、ということはなかった。笠原氏の著書『隠された心の力』にがんの症例が2例載っているが、多くのケースでは末期になって来院することが多いため、心理療法では間に合わない。心因性の要素が影響した症例は、かなり進行が遅いことが分かる。(つまり、ごく一般的な転移性のがん患者では間に合わない、ということ)
・『感情の演技』を極端に嫌がる患者が多いので、開始することさえできれば、効果は出やすいと考えたが(治癒、改善には間に合わなくても性格的傾向が変化する、など)、他の心因性疾患よりも、変化が早いということはなかった。また、がん患者は治療者に本音を悟られないようにしようとする傾向がある。心理療法においても、「自分の考え方や生き方が変わってきた」と生き生きと話をするので、変化が起きたと思いこんだ時もあったが、家族の話や行動を観察してみると、全く変わっていない事がある。この点は追試において注意が必要。
・心理療法を受けに来ている患者さんたちの経過を追うと、がんになるタイプとは逆の方向に変化していくことが多いため、予防になる可能性は十分にある。(予防したこと自体は立証できないので、あくまでも仮説)
次に、笠原氏の心理療法の手続き(”反応を目安に、記憶が消えている症状が出現する直前の出来事を探る”、”感情の演技”の他にも、患者さんの症状改善に効果があると推測できる要素が分かってきたので、簡単に触れておきます。
『治療者の与える影響について』
・表面的な治療手続きは変わらないのに、治療者が患者に無意識レベルで影響を与えている可能性がある。

・一つの側面としては、治療者の理解の深さ。(理解が深くなると症状が消えにくくなる)

・もう一つの側面は、治療者が抵抗に直面しているか、いないか、など、生き方が患者の改善に影響している。

『今後の課題』

・がんの心理的メカニズムの解明。
・治療者が患者に与える無意識レベルの影響

※ がんへの心理的メカニズムの影響は、患者が大勢来る病院などのほうが分析に適しているため個人の治療家が解明するのは難しい。治療者が患者に与える無意識レベルの影響は、科学的方法論を超えてしまうので(科学的証明はできない)、経験的にわかってくるまで追試を続ける。
・社会の進歩に伴う心理療法の変化
生活の安定から生きがいへ)
次に、社会の変化という点から、心理療法の内容についてもその変化を考えてみたいと思います。笠原氏も著書やウェブサイト等で指摘しているように、主に先進国を中心に、一昔前の常識的な価値観(平穏無事に生活する)とは違った価値観(自分の能力や人格を高めたい、また、自分にとって本当にやりがいのある事を追求したい、など)を持つ人が増えてきました。
明日の生活(生存)の心配をしているような状況では『抵抗』に直面することは少なく、心因性症状も殆ど出現しませんが、生活(生存)の心配が少なくなり、自分の生きがいを追及する方向性に変化してくると、『抵抗』に直面しやすくなるため、心因性症状は出やすくなるのです。
また、生きがいを求めるという段階において、特に昨今の社会状況では、旧来的な常識で導ける『正解』が少なくなってしまうので、自分自身の本心に従って答えを出す必要に迫られます。例としては以下のようなものがあります。
・スポーツ選手が競技を続けるか?やめるか?
・(女性に多い悩みですが)仕事を取るか?結婚を取るか?
・会社に残るか、やめるか?
かつて、これらの悩みには、常識的な回答がありました。スポーツ選手は成績が維持できなくなったらやめる、女性の一番の幸せは子供をつくることなので当然結婚する、友人知人に「会社をやめようか?」と相談されれば、「もう少し我慢しろ」と慰留する…。個人的な意志で何か決めるというより、ある程度以上、社会に支配的な規範意識、価値観によって答えが決まっていたのです。

その価値観が基盤としていたのは、”生活の安定” です。状況に応じて、平穏無事に暮らすための最善策を選ぶ、ということがなにより重要でした。

現在では生存の心配が大きく減少し、結婚や就職(離職)などが持つ価値が絶対的なものではなくなりました。先ほど書いたように、そうした状況では“生きがい”、”やりがい”へと判断基準が変わっていきます。旧来的な規範意識や価値観、他人のアドバイスでは答えが出てきません。個々人の個々人なりの新たな価値、規範、倫理の意識が必要になります。
意味合いの変化
また、同じ事柄や関係性でも、“意味合い(文脈)”が違ってくる場合には、それに伴って抵抗の強さも変化します。
『夫婦』という在り方

・子育ての時期…(協力して生活をしていくことが優先となる。生活共同体という意味合いが強い)

・子育て後…愛情が優先されるため熟年離婚などが起こってくる

『余暇の使い方』…何かをしなければいけない、と、義務的に色々なカルチャーサークルに通うのと本質的に自分のやりたいことをやる、というのは違う。以下のようなケースが考えられる。
・退職後、余暇の消化として絵画教室に入る。(義務的に時間を潰す行為。抵抗はほとんどないので、心因性症状は出にくい。むしろ、そのような時間の潰し方に疑問を持ち出すと症状が出やすい)

・退職後、昔からやりたかったが、仕事をやっていたときは時間がなく断念していた絵を始める。(できる範囲の好きな事をやる、それほど抵抗は強くない)

・退職後、やりたかった絵を始め、自分の本当に画きたい絵を模索するようになる。(強い抵抗に直面しやすく、心因性症状が出やすくなる。他人と比較した上での自分らしさを求める場合は抵抗も弱いが、やりがいがない。やりがいを求めて、本当に自分の描きたい絵は何かを問い始めると、非常に強い抵抗に直面する)

私は、まだ笠原氏の心理療法と幸福否定の理論を勉強しはじめて10年も経っていないのですが、この10年でも、“意味合い”の重要性がどんどん大きくなっているように感じています。
素直な感情に従う
上記のように、社会や個人という概念の変化(進歩)に伴い、“自分の素直な感情に従う=やりがい、生きがいを探す”という方向に進むわけですが、そこには限りがなく、最終地点というものもありません。

また、従える感情は、”自分が自覚できる範囲の素直な感情”に限られるので、”感情の演技”などで『抵抗』に直面し、意図的にそれを弱くしない限り、自分の感情、表面に出てきていない本心などを把握、理解するのは困難です。

その点を踏まえると、”素直な感情”というのは、常に“現時点での”、ということになり、言い換えれば、”変化する余地がある”ということになります。

反応を目安にする
“素直な感情は常に変化する可能性がある”、と認識すると、そこには不確かさが付きまといます。ただし、『反応』が出るのは『抵抗』に直面し、自らが進歩する方向性を示しているので、“反応を目安にする”ことを一貫した生き方の指標にすることは可能です。

『反応』の出方を目安に、『抵抗』へ直面し続けながら、”素直にやりたいと思える事”(実際には、反応が強く出る行為や対象よりも本人の『生きがい』としては下位に位置する)を実生活で形にしていくわけです。

とはいえ、反応を目安にしながら生き方や取り組み方を決めていくのは、言ってみれば常に生みの苦しみを味わい続けるということなので容易ではありません。それは日々の心理療法でも実感することです。

ただ、現在の先進国社会では、あえて『抵抗』に直面し続けるという求道的な生き方を選ぶ人たちだけではなく、ごく普通の市民であっても何かしら『抵抗』に直面するのが避けられない状態でもあります。そうなったときに、”社会的、常識的な正解がないから、自分の素直な感情に従う”のではなく、“社会的、常識的な正解がないから、反応を目安に自分の取り組みたい事を探ってみる”という方法論の方が、より自分の本心に近づいて生きる事ができるのは確かです。

“本当にしたいこと”にとり組む意味
極一部の稀な例ですが、日常生活に支障をきたすほど強い抵抗に直面し続ける生き方を選ぶ人もいます。笠原氏も2013年4月の文章で、本当にやりたいこと(抵抗の強いもの)ではなく、比較的抵抗の弱い二番目以下の分野で能力を発揮し、成功したという例として、実在する人物(正岡子規)を挙げながら、現在の科学等では十分な説明のつかない生き方というものも存在するのではないか、と推測しています。
子規は、俳句という分野を選んだおかげで、残された短い時間の中で、数多くの作品を作り、数多くの弟子を育て、非常に高く評価される結果になりました。短い人生の中で、中身の濃い生きかたができたわけです。短い人生の中で、中身の濃い生きかたができたわけです。では、子規が本当にしたかったらしい研究を実際に選んでいたとしたら、いったいどうなってい たのでしょうか。それは、表面的にはおそらく苦しみの連続で、あまり多くの業績はあげられなかったでしょう。したがって、それほどの評価は得られなかった かもしれません。しかし、本当の意味でとり組みたいことにとり組んだとは言えるでしょう。そして、そのほうが、私のいう“本心”に素直な生きかただったの はまちがいないと思います。
では、本当にしたいことにとり組むことの意味、あるいはそれが周囲にもたらす影響は、どのようなものなのでしょうか。それは、私にもまだわかりません が、いわゆる生きがいとか世間の評価とかとは全く別の次元の、何かきわめて重要なことに関係しているように思います。現在、それが何かを突き止めようとし ているのですが、今生でそれができるかどうかは、現在のところ不明です。

引用:『心の研究室ホームページ:抵抗の相対性について

既存の『自己実現(抵抗に直面しない程度のやりたいこと=生きがい)』とは全く違う“意味合い(文脈)”が見つかれば、『人間』への理解が進むことになると思います。つまり、小坂医師から始まり、笠原氏が発展させた、“反応”という客観的な指標を追い続ける方法論には、現在よりもっと深い生の在り方へと迫れる可能性が秘められているのかもしれません。
 おわりに
さて、以上で『幸福否定の研究』について、全体のまとめは終わりです。当初は1年以内に終わるだろうと考えていましたが、冒頭でも書いたように諸々の事情があり、結果的に随分と時間がかかってしまいました。引用文献や病気などの記述についてはなるべく正確を期したつもりですが、至らない点も多々あったと思います。筆者自身で気がついた点は適宜修正をしていますが、不自然な点がありましたらサイトへのメール等でご指摘頂ければ幸いです。

ご精読ありがとうございました。


注1
:現在の診断基準における『統合失調症』では改善例が出ています。但し、昔の『精神分裂病』という診断名からは随分と拡大解釈されていますので、この点は区別が必要です。